マルクス・アウレリウス晩年の時代って、どんなものかしら?
と思った時に見る『グラディエーター』で、時代を見たい時に見ているのはストーリーでもアクターでもなく時代に対する解釈。
グラディエーターに身を堕とすマキシマスが、将軍だった時に防寒と恐らくは身分を表すために身に纏っている毛皮は、狐かそれとも狼か。防寒具として登場する毛皮には、ヒョウ柄っぽいものもあり、映画にはライオンだって登場するけどそもそもローマにはライオンもヒョウもいない。
ローマとアフリカ(北アフリカ)の歴史は地続きで、連続していることが細部から見て取れる。
衣装や装飾品に、武器や武具。遺跡から出土したものや美術芸術品として現代にも伝わるものは再現しやすいけれど、歴史的資料に乏しいものは、再現できない。何を食べていたんだろうと思っても、そこは曖昧。
ローマ時代の遺構の中でも、コロッセウムという非日常空間を舞台に選ぶと、必然的に日常は遠くなる。
グラディエーターとなったマキシマスが、真の身分とその名を明かした時、剣闘士仲間から歓呼でもって迎えられる。そんなシーンがあるけれど、ナポレオンがエルバ島を脱出してパリに戻ってきた時、彼を迎えた大衆の反応もそんなものだったんじゃないかと思う。
マキシマスが居なければ、見世物として無残に殺されていただけ。戦い方と勝ち方を教えてくれた。だから、生き残れた。そうした人物を間近にした時、大衆は熱狂する。
王の首は落とせても、ナポレオンの首は落とせない。
ワーテルローの戦いに負けたあと、今度はセントヘレナ島に再び島流しとなり、同時代に対する影響力が薄れるのを待つかのように、死ぬまで閉じ込められた。
英雄の首を刎ねたという反感は、バラバラになりがちな大衆を一致団結させるのに十分で、ナポレオン後は王政復古という既定路線が修正を迫られる。
創作意欲を刺激する人物が居ると、勧善懲悪というわかりやすいストーリーが作りやすくなり、ストーリーに乗せられた大衆が動くと時代も動かしやすくなる。
平民から皇帝に成り上がって失脚した。王の首は刎ねられ、平民が皇帝となり全ヨーロッパとフランスが闘っていた時。イギリスは何をやっていたかというと、植民地政策。
歴史の表舞台で華々しく活躍する絵になる人物を送り出す代わりに、原材料や労働力の調達先や販路として、粛々と植民地を作っていた。販路が大きな市場となった現在ではますます絵になり辛く、その真相が絵になるのはきっと今よりもっと先のこと。
絵になる=エンタメになるをソフト路線とすれば、絵にならない=エンタメに頼らないはハード路線。お金の作り方や生まれ方が異なると、社会のありようも異なるのかも。
華美や装飾性を求めず泊まることに特化したビジネスホテルは、部屋の造りが簡素だからきっとお掃除もしやすい。お掃除ロボットが動きやすいのは、動線がシンプルで簡素な方で、ロボットが動きやすいように動線を設定するなら、そもそもロボットに優しい。
お掃除ロボットのことを考えない動線では、お掃除ロボットも本来の性能を発揮できず、稼働させてもキレイにはならない。絵になることを主眼に華美や装飾性に走ると、お掃除ロボットには優しくない可動域が生まれる。
絵にならないものを絵にするハードルが高いのは、路線変更のハードルがそもそも高いからで、高いハードルを越えて絵になったものは、観賞価値も相応に高くなる。
エンディングを美しくするためにマキシマスは美しく死ぬ。エンディング=引き際がみっともなくて鑑賞に耐えないと神格化できない。だから、真に脅威となる者のエンディングはできるだけみっともなくなるよう貶めるのは、恐れの裏返しなんだと思う。