クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

野心が生まれてきたところ。

舞台を一ヶ所に限定し、登場する人物もその場所に出入りするのが自然な人だけにすると、ファミリードラマが出来上がる。

 

舞台が個人宅ならある家族の肖像となり、企業にするとある企業の肖像や消長となり、業界にすると、とある業界の肖像が出来上がる。

 

歴史上の有名人を主人公に据え、有名人が活躍したある時代を描きつつも、親子や兄弟姉妹間での確執や夫婦や夫婦未満の愛憎を語るのにより力こぶが入っていれば、どれほど格調高くても結局はファミリードラマ。

 

時代は十字軍。聖地をめぐって、西と東が激しく争っていた頃。西洋キリスト教社会の雄として、東方イスラム世界のヒーローと戦い世界史上にその名を残したある王様。その父親が主人公となると、日本史上でたとえようとしてもちょっといいサンプルが思いつけない。

 

ざっくり言えば、織田信長上杉謙信武田信玄、その父親くらい?

 

プランタジネット朝のヘンリー2世を主人公に、その妃をキャサリン・ヘップバーンが演じた『冬のライオン』をアビエイターつながりで見た。アビエイター → キャサリン・ヘップバーン → 3度目のオスカー受賞作という発想。

 

プランタジネット朝もフランスのフィリップ王も、世界史上の点でしかない。

 

ジグソーパズルのピースのひとつかふたつ。映画というドラマ仕立て、それも舞台をクリスマスのシノン城に限定し、台詞アリの人物は王族に限ることで、時代背景という面での理解がちょっと進んだ。

 

プランタジネット朝のヘンリー2世は、フランスのいち地方領主に生まれながら、イングランドの王位を相続によって継承し、やっぱりフランスの別の地方領主の娘と結婚することで、さらに領土を拡大した。

 

十字軍の時代。中央集権化がもっとも進んでいるのは、ローマ教皇を頂点としたキリスト教の聖権力組織のはずで、だからローマ・カトリックの総本山から離れるほどに、群雄割拠の戦国時代状態により近付いていく。

 

聖権に対する王権(=俗権力)の領土は、増えることもあれば減ることもあり、イングランドでは王でもフランス領土内ではフランス王の臣下。

 

という複雑な国際情勢のなかで、家長として王として君臨するヘンリー2世もまた複雑。領土が減るのか増えるのか。そもそも複雑な状況をさらに厄介にするのは後継問題で、ファミリードラマがもっとも盛り上がるのは、やっぱり揉め事。

 

エゴが剥き出しになる場面では誰もが鬼気迫る演技で、鬼と怪物はつくづく作りやすいんだと実感する。

 

作りやすいとはいえそこまでやるかというのが素直な感想で、この作品でキャサリン・ヘップバーンがオスカーに輝いたのは、そうでもしないと“鬼”、封じられそうにないじゃん。というくらい、鬼ババアっぷりが凄かった。

 

イングランドでは王、フランス領土内ではフランス王の臣下で、聖権力>俗権力という複雑な状況を、さらに複雑にする後継問題。

 

めいっぱい卑近にして考えると、生家は一戸建て。家土地を合わせるとマンションくらい建つよという立場から、相続によって生家とは離れた場所に200戸超のマンション敷地たっぷりと生家にほど近い一戸建てを得、さらに結婚によって生家にも近く、パリという都会により近い場所の戸建ても手に入れた。

 

相続分と妻の実家と生家を合わせると、100戸規模のマンションくらい(建ぺい率は考慮しない)、今いる場所よりもっと都会に建ちそう。という状況に置き換えるとわかりやすい。

 

合わせれば大規模マンションが建つけれど、交渉につまずくと捕らぬ狸の皮算用で、子孫に美田は残らない。

 

そういう状況で集った家族だから、クリスマスであっても和気あいあいという雰囲気からはほど遠く、最も熱くなるのはそれぞれの取り分について話す時。

 

と、解釈すると、地方のいち領主からイングランド王という大きな舞台で活躍した、ヴァイキングの末裔っぽさが濃厚で、王家といっても権威の高さもへったくれもない。

 

映画内での城内は殺伐としていて、ローマ・カトリックの壮麗かつ壮麗な建築物(見てきたように言ってるだけ)からもほど遠い。

 

家臣団とともに寝起きするための場所だから、広い敷地を必要とした殺風景な建築物が、壮麗かつ荘厳になっていくのはまだ先のお話。次代のリチャード獅子心王が十字軍に参加して、聖権のきらびやかな文化に触れて以降のことで、領土が先で文化はあと。

 

ヘンリー2世の時代は、王も王子も王妃さえ王権に野心的で、王権=領土で領土の獲得にも野心的。獲得するものがなければ、野心は生まれてこない。

 

というメッセージを、等身大の(ように見える)登場人物が活躍する、娯楽の新しい王様としてテレビドラマが登場した頃に合わせ、古くて取っつきにくいテーマに大御所を配して映画で発信するという、その時代背景こそがやっぱりいちばん興味の尽きないところ。

 

舞台が映画になって、映画がテレビになって、今ではインターネットが登場して動画になっている。演じるという業界で、伝統を背負ってないのは舞台出身じゃない方。

 

ハワード・ヒューズが映画界に歓迎されなかったのは、きっと舞台という伝統を背負ってなかったから。シェイクスピアの戯曲風に描きながら、シェイクスピアが描いてなさそうな人物の妃をハワード・ヒューズと縁の深いキャサリン・ヘップバーンが演じてオスカーを獲る。

 

その構図こそが、演じるという業界の縮図そのもののように思えてお腹いっぱい。

 

最初期から複雑さに対して耐性がないと、複雑な状況は乗り越えられないようになって、ビギナーはついてこれなくなって新陳代謝が滞っていく。