クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

バルク

現在価値しか認めないリアリストが、過去や来歴を深掘りするのは、何かを安く買い叩きたいからに決まってるじゃん。

 

安く買って高く売れたら楽に儲けが出るんだけど、何でも値上がりし過ぎちゃうと、もう安く買えるものなんてどこにもない。だから安く買い叩ける材料を探し、場合によっては安く買い叩けるよう、目を付けた素材そのものを叩くのさ。

 

一個から出るアガリや利益は大したことがなくても、バルクとなったらまた別。だからバルクで買い叩く準備がある側は、バラバラなものをバルクにしてから買い叩き、買い叩きやすいようひとつにまとまれとけしかけにくる。

 

昭和の犯罪史に残るような事件が起こった時、その犯罪の手口が大して有名ではないフィクションとそっくりだと一部で話題になったことがあった。大して有名じゃないフィクションが事件のおかげで有名になったんだとしたら、事件さまさま。だけど、もしもこれが有名なものだったら、きっと打撃になる。

 

そもそもの影響力が大き過ぎると模倣犯を産みやすく、模倣犯のゆりかごになるからという理不尽な理由で、ゆりかごそのものも問題視されてしまう。

 

そんなの真似する方が悪いに決まってるんだけど、迷惑する人がいるから真似するなと注意して止めるようだったら、そもそも迷惑行為になんか手を出さない。

 

モラルが通用しない相手に悪用されると、模倣犯が量産されて、迷惑する人も続出する。

 

その手の情報は結局隠されるようになり、隠されるようになると、情報を売って対価を得ている方にとっては大打撃。だから、悪用されると打撃になる相手を選んで悪用するという動機も生まれやすい。

 

何かが起こった時は、HowよりWhy。そっちの方に、断然大きな意味がある。

 

なぜ、どうして。特定の何かが執拗に攻撃されている時は動機の方により意味があり、動機さえわかれば謎なんてほとんど解けてるんだけど、謎が解けたからといって攻撃が止むとは限らない。

 

モラルが通用する相手なら、そもそもそんなことしないんだから。

 

モラルが通用しない相手にモラルで対抗しても無意味。モラルが通用する相手としない相手は分ける必要があり、必要があって分けてるものを敢えて一緒にするのなら、敢えて一緒にする理由の方に、より大きな意味がある。

 

どっちも売ってる物に、大した違いなんてないじゃん。

 

という商品を、せまーい商圏内で競わせ負けることが許されないリーダーにそれぞれ任せて競わせると、たいていは活気が生まれるもの。火のない所に煙を立たせ、立たせた煙を客寄せにして競わせ、負けた方が勝った方のものとなったら、どっちが勝ってもひとまとめにできる。

 

ひとつのバルクとなって点が面になり、面となったバルクの盤面の色が、オセロのように白から黒あるいは黒から白になって、色が変わるたびに入れ替わる何かがあれば、見せかけやでっちあげの競争からでも、何らかの経済活動という本物の動きが生まれる。

 

でもさ、そもそもが見せかけででっちあげだから、常に人為的な関与や作為がないと続かない。関与や作為がなくなったらすぐに動きが止まってしまうものを、未来永劫休みなく続くかのように見せかける行為は、一般的には詐欺やインチキと呼ぶものさ。

 

一方にはやりたい人が居て、他方にはやりたくない人が居て、やりたくないと公言してる方が執拗に攻撃されていたら、なぜ攻撃されるのかなんて、小学生でもわかる。理由や動機がわかったところで、攻撃そのものは小学生では止めようもないんだけど。

 

一方的な攻撃を、見てるだけだった小学生もいつかは大人になり、なぜという課題をそもそも抱えつつ大人になったら課題解決力もそりゃ高くなる。課題解決力が高くなったかつてのお子様には、もうコドモダマシな手口は通用しないさ。

あなたのお名前は?

よいイメージを持つ名前は、よいイメージにあやかろうとする人たちに勝手に使われる。

 

その一方で、よいイメージもあるけど悪いイメージもたんまりある、毀誉褒貶ある名前は使われにくく真似されにくい。

 

ナポレオンといえば、今でも19世紀に生きた人物のイメージが圧倒的で支配的で、21世紀になった現在、子供にナポレオンと名付ける人がどれほどいるのかちょっと謎。

 

ナポレオン・ボナパルトをありふれた名前、ジョン・スミスに置き換えると、ジョンと呼ぶようにナポレオンと呼んでいる。名字、ファミリーネームではなくファーストネームで呼ばれているのは、歴史を振り返れば王様の特徴。同じ家系、ファミリーネームから王様を何人も輩出していたら、個体識別に必要なのはファーストネームだから。

 

歴史を作るのに、王様だけでなく官僚や政治家あるいは軍人にその他、文人や科学者が加わるようになると、個体識別に必要なのはファミリーネームで、ファミリーネームで記憶される人が増えていく。

 

だから、ナポレオンはボナパルトではなくナポレオンとして知られてる。結局短命に終わっても、王朝は王朝だから。

 

名前は最初の贈り物で、子供に非凡な名前を付ける人は、非凡な人生を子供に望んでいるとみることもできる。非凡な人生を望む、その動機にはいろいろありそうだけどさ。

 

同時代、少なくとも半世紀や1世紀のスパンで考えた時、誰もが成功者だと考える人物の名前にあやかるのは、子供によりよい人生を望む、わりとありふれた動機。功も大きいけれど、また罪も大きい。功罪両面あって、好かれる反面勝手に嫌われる、それも蛇蝎のように嫌われる名前にあやかろうとする親は少ない。

 

功罪両面ある名前は、悪用するのにもってこい。

 

悪い遺産と悪いイメージを増幅させたかったら、悪い遺産や悪いイメージに勝手に名前を拝借し、印象操作でとことん貶められる。

 

とことん貶められるのがわかりきっている、非凡な人生をおくることになる人には、だから誰もが知ってる単純かつ平凡な名前か、逆に誰も思いつかないような非凡な名付けになる。

 

非凡な名前は非凡で目立つから、むやみやたらとコピーはできない。その反対に、ありふれた平凡な名前は、ありふれすぎているから個体識別が難しくなる。

 

ありふれた名字やファミリーネームに非凡なファーストネームの組合せは、覚えてもらいやすいから名を成す時にはプラスになる。その反面、名付けた非凡な名前が功罪両方の面を持ち、罪をいつまでも忘れない人にとっては悪印象しか残らないものになっても模倣もされず、模倣されないから悪用される危険性も低くなり、唯一のものになりやすい。

 

代々続いてきたわけでもない。

 

いってみればぽっと出が名を成してコトを成そうとすれば、名付けの段階からすでに非凡なスタートを切っている。名付けの段階からすでに非凡なスタートを切ってるってことは、名付けた側は非凡な人生になることを承知してる。

 

名付けられた本人の意思がどうであろうと、非凡な人生をおくることが決まってる。

 

そういう人物におくる最初のプレゼントとして、ありふれた名前をおくるかそれとも非凡で悪用されにくい歴史に習うか。平凡でありふれた名前をおくるなら、そこにはやっぱり平凡な人生であって欲しいと願う気持ちが、透けて見えるような気がするんだけどさ。

透明

テクニックや小技、あるいは小細工なんかまったく必要もなく美しいという意味が込められてるから、天人の衣には縫い目なんかないんだな。

 

どれほど好きでももう、ホールケーキを一度に平らげることは無理で、どれほど上等で美味しいお肉でも、200g以上のステーキを平らげるのは無理。胸焼けする。それは加齢に伴う自然現象で、いくつになってもペロッとホールケーキやステーキを食べ続けられるのは、どっちかっていうと超常現象っぽい。

 

3日前に食べたものを思い出すよりも、大昔、脳みそが柔らかい時に夢中で吸収した何かを思い出すのははるかに簡単。フックになる何かがあれば、スルスルと芋づる式に思い出せる。

 

前途洋々だった若者の前途を妬んだものによって、前途洋々だった若者は前途洋々からお先真っ暗に無理やりコース変更を迫られるんだけどさ。お先真っ暗に叩き落されたのは、ただ頼まれただけという無実を証明する大事な証拠となる手紙を燃やされちゃったから。

 

燃やして証拠隠滅したあとは、ノー裁判で絶海の孤島に送り込んで知らんぷり。

 

そんなことができたのも、証拠隠滅をはかった人が犯罪を裁く側に居たから、証拠の手紙の存在が公になると、自身が政治的に窮地に立たされるからで、躊躇なく自身の未来をとって若者の前途を閉ざす。ノー裁判で絶海の孤島に送り込み、あとは野となれ山となれと、野垂れ死にを期待する。

 

監査や査察がない、あるいは監査や査察が機能しない前近代って、ほんとイヤ。

 

絶海の孤島にあり重罪犯を収容する刑務所に送り込まれるような重罪犯が、いったい年に何人居るってのさ。フツーに考えたらそんな場所に送り込まれるような極悪人が、そうそう居てたまるもんか。

 

ついでに、収容場所が先にパンクするほど、基準値を超えて重罪犯が次々に生まれているような時は、裁く方がおかしくなってる時だと決まってる。

 

しかも、裁判の記録もなし。裁判の記録はなく、重罪犯を収容する刑務所に送られたのに、誰もその重罪犯について知らないなんて何ソレ?と、疑問しか浮かばない。

 

昨日までは皇軍と信じて蹶起した青年将校たちが、一夜にして賊軍になったように、ナポレオン支持者の扱いもナポレオン失脚後は一変する。目先の効く、あるいは空気を読むのに長けた人が率先してその空気を作れば、下克上は加速する。

 

下克上を起こすなら、より混乱が大きくなる上の方で起こすに限るから、よくできたお話のなかでは、悪事を足掛かりに栄耀栄華を尽くしたものが、最終的にはお先真っ暗に突き落とされる。

 

そして前近代とちがって、近代や現代では大きな社会的混乱が起きないよう、あらかじめシステムが整えられていて、社会的混乱を防ぐための先行投資も行われている。

 

「社会的混乱を防ぐための先行投資」 > 「社会的大混乱を起こすコスト」という状況で大いなる下克上が起こり、先行投資が単なるムダ金になってもニコニコえびす顔だったら、最初からムダ金を捨てるため。

 

大金をムダ金にしてもニコニコえびす顔だったら、そもそもフツーじゃない。

 

フツーに戻りたかったら、大金をムダ金にする罰ゲームであればともかく。そんな余裕はどこにもないのがフツー。だから、前途洋々だった若者がお先真っ暗に突き落とされ、お先真っ暗に突き落とした側が栄耀栄華を極めてもすべての栄光がチャラになるよう、最終的にはきっつい下克上が起こるよく出来たお話に、拍手喝采が集まるようになっている。

 

世の中がひっくり返るような価値観の逆転は、滅多に起こらない。

 

監査や査察がない、あるいは監査や査察が機能しない前近代的なシステムのもとでは、前近代にありがちな悪事も起こりやすく起こしやすいんだけどさ。それは、前近代的なところで起こることでしょ?で、最先端のシステムを備えたところからはスルーされるだけ。

 

換骨奪胎したチートで最先端のシステムを騙したり欺こうとしても、最先端の側にすぐに換骨奪胎を見破れるような、今さら誰も見向きもしないような古典にさえも通じた人材を揃えてしまえば、チープなチートは通用しない。

 

すべてコストで説明がつく世の中って、考えたらすごく透明かも。

 

コストや資金の出所の説明がつかないのに、いつどんな時でも変わらずに羽振りがいいのは、フツーに考えたら不透明極まりないやね。

真偽は、知らね

王様の首だって、ちょん切られちゃった時代。処刑されてもおかしくなかったのに、島流しでお茶を濁したのは、首を切るのが恐ろしかったからかも。

 

古い権威の象徴であるルイ16世が断頭台の露に消えることになったのは、恐怖政治のさなかでロベスペール派によるものだって、後世にもちゃんと伝わっている。悪いことはすべて、ちょうどいいからこいつのせいにしてしまえ、というよくある奴かもしれないけどさ。

 

新しい権威(当時としては)の象徴であるナポレオンの首、ちょん切っちゃったら民衆がどう暴発するかわからないから島流しになったんだろう。くらいは、当時をよく知らない現代であっても、すぐにわかる。

 

ついでに、悪者にするちょうどいい人物がいなかったからでもあって、もし悪役にぴったりの人物がいたらやっぱり古い権威の象徴と同じように、首ちょん切られちゃってたかも。悪意をひとり、あるいは一派に集中することができたら、後処理や事後の始末は何かとやりやすい。

 

あ、それ急進派のせいなんですわ。

 

とゆき過ぎた、あるいはアクセル踏み過ぎたせいでアンコトローラブルになった状況も、いったん正常化して穏健化することができる。事実、ルイ16世の首はねちゃた恐怖政治の首領だったロベルピエールの首も後に落とされ、恐怖政治が幕を閉じ、一旦は穏健化する。

 

後世から見たら、集団ヒステリーとしか思えない恐怖政治のさなかでは、合議や民主的な手続きはどう見てもないがしろっぽくて、結論ありきで首はねてたよね?としか思えない。

 

理性というストッパーを外し、めいっぱい感情で突っ走って滅茶苦茶やったあと。すべての責任を押し付けても文句が出なさそうな独断専行型リーダーを用意しておくと、本当に都合がいい。

 

一存だった。独断専行だった。というすべての責任を押し付けられた指導者が、本当は何を考えていてどんな人物だったかなんて、同時代を生きた人以外には本当のことなんてわからない。歴史は勝者が紡ぐものだから、勝者に都合よく脚色されていても何の不思議もない。

 

本当は何を考えていて、どんな人物だったのか。後世からはわからないけれど、死人に口なしで合議だったのか否かの客観的証拠にも乏しかったら、独断専行だったという都合のいい状況に合わせ、被害が他に及ばないようたった一人のせいにされることもある。

 

という事実から学べることも、意外とたくさんある。

 

死人に口なしで、すべてをたった一人のせいにされたらたまんねぇ。民主的な手続きや合議制の重要性に目覚めて自覚的になるのは、次の世代から。

 

フランス本土からは、フランスと認められてたかどうかも怪しい辺境の地から、本当にただの一兵卒から皇帝にまで成り上がった立志伝中の人物は、勝手に崇拝される。失脚したあとでも、再起のために挙兵したとの一報でもあれば、現在の職場も立場も捨てて、ただ立志伝中の人物と行動を共にしたいという感情だけで、有象無象の大衆が動く。

 

現実あるいは現在でも、そば近く寄ることもできない著名あるいは高名な人物のTwitterでの発言に、一喜一憂する人の多さを見れば、今も昔も人のやることなんてそう変わらない。

 

有象無象の大衆を動かすことができる人物なんて、単なる脅威。

 

だから、失脚した立志伝中の人物が、大逆転で皇帝に返り咲いてふたたび民衆を率いるという、大衆に都合のいいストーリーは用意されない。正統派に戻るという、ウィーン会議で決まった通りの路線を踏襲しながら社会は動き、正統派では抑えきれない世の中のガス抜きは、事実が丁重に扱われる場所とはまた別の場所に用意される。

 

酷い目にあった前途洋々たる好青年が、大金持ちになって彼を陥れた悪人たちの復讐にも成功する。というよくできたお話は、こうだったらいいのにという失脚したナポレオンの後日譚。

 

現実には、失脚した立志伝中の人物が二度と再起できないよう、ヨーロッパ列強が寄ってたかって結託して、大逆転を許さない。せいぜいいい人が先に死ぬことで、空しい戦いは止めましょうと、戦争に対する抑止力に都合よく使われる程度。

 

将来に対する大いなる脅威を全力を挙げてぶっ潰してから、空しいから戦争はやめましょう!とかむっちゃ空疎だけどさ。その種のことが恥ずかしげもなくできないと、官軍、それも歴史と伝統に陶冶されて磨き上げられてきた、官軍にはきっと入れないようになっている。

 

史上空前という枕詞が似合いそうな偉業をなした人物は、早世するかその血統も絶えることが多く、暗君とたすき掛けくらいが、皇統や王朝が長続きする秘訣なのかも。立志伝中の人物の下では、どうしたって優秀な部下や組織は育たず、ボンクラを大将として戴くくらいが、優秀な部下や組織育成のためにはちょうどよかった。

 

くらいのセオリーがあると、そんなセオリーにもつい従いたくなるやね。当然、真偽は知らね。

根が伸びる

根が伸びるって大事。

 

スクスクと育って蕾をつけ、花が咲くのを楽しみに待ってる観葉植物を見ると実感する。スクスク育った株は、根ものーびのびで伸び放題。一方で蕾は固く閉じたまま、一向に花を咲く気配さえ見せない方の株は、そもそも根が伸び悩んでる。

 

なぜ根が伸びないんだ???と栽培キットを点検したら、栽培キットの一部が腐食し、どうしたって何回お掃除してきれいにしたところで、根の一部が腐ってくるからどうやっても根が伸びないようになっている。

 

栽培キットそのものが腐ってたら、根なんか伸びるわけもスクスク育つはずもない。ましてや花なんて、咲くわけがない。

 

あら、こんなタイプの栽培キットもあるんだねと、もの珍しさで手を出したもの。今までにない素材を使ってるところがもの珍しかったけど、今まで使われてこなかった理由もよーくわかった。すぐ腐る素材だから、そもそも栽培キットには向いてない。

 

例年の今頃だったら、雪深くてとても歩けそうにない場所に行ってみたらサクサク歩けた。

 

雪、ほんとに少ないんだと思いつつも、ウォーキングする場所には困らないから例年より運動不足に悩まされることもなく、快適。ただし厳しいはずの冬が快適過ぎると、次は夏が恐ろしい。

 

降る雪がこんなに少なかったら、どう考えたって次に待っているのは水不足。雪という天然資源に恵まれていた札幌だったら、渇水の経験もなければ備えも手薄そ。

 

将来的に値上がりが期待できるあるいは品薄になりそうなものを安上がりなうちに囲い込み、狙った通りの状況になったら高値で売りつけ、それまで顧客になり得なかった層まで顧客として取り込む。

 

という僕・私の顧客はどこだ、居ないなら作ってしまえというお手本のようなやり方は、お手本になれる人が徹底的にやると、えげつない。えげつないし、誰もが真似できるものでもないから、二度はない。つまり、脅威を見せつけるあるいは見世物にするにはピッタリね。

 

山に降り積もった雪が、春になると雪解け水となって流れ出して水源を満たす。

 

という自然の理がどこかで崩れてしまうと、不本意でも不自然に頼ることになる。

 

タダだと思っていたもの、タダでも使ってもらえるよう付加価値を高めてきたあるいは守ってきた経緯も無視して、タダでは使えなくなる。

 

もっとも下位に位置するものでも生きられるエコシステムの中では、上位にいるものほど旨味が大きくなる。

 

モノポリーと大衆は相性が悪いなんて、ちょっと考えればわかること。みんなのものと僕・私のものが、仲よしこよしでみんな仲良くなんてできるはずがない。できるはずがないから、みんなのものな時には僕・私の側がみんなに譲ってるだけで、僕・私のものな時には、みんなの側が譲ってるだけ。

弓が二つ並ぶと、湯気

弓が二つ並ぶと湯気を表して、湯気がお米をサンドイッチにすると、粥になる。変な字と思いながら辞書を引くと、そうなっていた。わかったようでわからない、会意文字。

 

日本で最も日本古来の伝統からは遠い土地であっても、七草粥は取り入れやすいし真似しやすいから、ちゃんと七草セットが売っている。北海道産を謳われると植生が全然違うから、後天的に栽培や繁殖させたものかと逆に心配にもなる。固有種じゃないもの、そんなに簡単に増やしていいの?と。

 

伝統がしっかり生きて現代にも伝わってる地域だと、お馬さんパカパカな神事でもやってるのかもしれないけど、生き物使う系は取り入れやすくも真似しやすくもないから、伝統を残していくのも大変そ。

 

今回のお節は、初めて田作りを自分で作ってみた。

 

個人的には、お節の中でもお煮しめと並んで箸が伸びない系の筆頭で、大して好きじゃなかった。でも、初心者向けレシピでレシピに忠実に作ってみたらたいそう美味しくて、特に出来たてはサクサクパリパリで、何度もつまみ食いで手が伸びたほど。

 

出来立て、こんなに美味しいんだとびっくりした。

 

コツあるいは美味しくできた勝因は、焦がさないこと。フライパンにクッキングシートを敷いて、根気よく20分は煎りつけてカリッカリにしてから飴をからめると、焦げずにサックサクに仕上がった。

 

だから、市販の田作りが大して美味しくないのもわかった。たいていは、焦げてるから苦い。

 

お節でも何でも。家族のなかにまめに手作りする人がいるあいだは、手作りの味に舌が馴染んで市販品には見向きもしない。馴染んだ味とは違うから、手作りしてくれる人がいなくなったあとはやっぱり市販品には馴染めず、お節やその他、日常のお惣菜系そのものから遠ざかる。

 

ということは、あるのかもしれない。

 

三が日のあいだに寄ったファストフードのお店では、ちびっこや未成年らしきお子様を連れたご家族連れも多くて賑わっていた。三世代あるいは四世代同居や近居で、おもに炊事を担ってきた人が変わったり居なくなると伝統の味も途絶えて、伝統には背を向けるようになるのかも。消去法的であっても。

 

美味しいものは、舌が覚えてる。記憶にある美味しいものとは違う、大して美味しくないものに大枚はたくのもどうよ?となって、新しいお正月の形が始まってる。そう思えば納得する、車で寄れるカジュアルな郊外型飲食店はどこも、三が日であっても賑わってた。

 

お餅にお米に干し柿に、多分昆布。お餅のてっぺんに飾るのは橙という、記憶にある鏡餅の姿は、そもそも床の間がないと再現しようもなし。

 

住まいの形は制約でもあるから、床の間なし住居の普及が始まった時から、伝統なんて形無しになって形骸化する未来は、すでに既定路線だったのかも。畳屋さんを見つけるのにも苦労するとわかっていたら、和室は作れない。

 

高価であっても海外なら普及してるものと、さして高価ではないけど海外では入手不可能で、国内にしかないものと。希少性に勝るのはどっちかなんて、希少性マニアならきっと知ってる。

奥歯に衣着せる

いまだかつて誰も見たことがなかった新しいメディアで、大衆とともに育つという特異で特殊な経験をすると、普通なら見過ごしてしまうことや気付かないことにも気付いてしまうのかも。

 

奥歯にものの挟まったような言い方、しなくてもいいじゃない。

 

歯に衣着せない。率直なものの見方や言い方がとりえで強みだった人が、具体的な言及は避け、抽象的かつ象徴的でわかったようなわからないような曖昧さを身に纏うようになるのは劣化か成熟か。

 

解像度が高くて平易でわかりやすいのがウリだったはずなのに、焦点がぼやけていって、焦点がぼやけていくから、何言ってんだか何言いたいんだかもわからなくなったように見えるから一見すると、劣化。

 

ホニャララの神様だとか、うんぬんかんぬんの神様だとか。

 

どの分野にも神様と呼ばれるような人が居たりするものだけど、神様と呼ばれるようなある特定分野を代表するような人であっても、晩年になると時に抽象や象徴の世界に走ってわかりにくくなる。

 

あれは、神様であっても晩年になるとキレが衰え、衰えたから抽象や象徴の世界で遊ぶようになったんじゃなくてその逆、解像度が高過ぎるから気付いた何かを、わざと曖昧にする成熟の証なのかもしれないと思ってる。

 

曖昧にするのは、当たり前の人にはついてこれないから。ついてこれないけど、技巧を凝らして見た目を美しくすると、キレイねステキねとひと目にもつきやすい。ついてこれない人にも、イメージだけは伝えられる。

 

バナナを食べ過ぎて、穴から出られなくなった魚って何さとずっと謎だった。バナナを食べ過ぎて穴から出られなくなった魚も、バナナを食べる魚について語ってきかせる人のこともずっと謎だった。

 

海に生まれ育った魚だったら、バナナなんて食べない。

 

海に生まれた魚の餌はバナナじゃないから、つまり自然の摂理に反してる。養殖技術が進んだ今なら何でもありかもしれないけれど、バナナを食べる魚について語ってきかせる人が登場した1940年代~1950年代の技術ではそんなことありえない。

 

自然の摂理に反してると言ったって、色々だけどさ。触れてはいけない、近寄ってもいけない、ましてや食べるなんてもってのほか。バナナを食べる魚に象徴される、自然の摂理に反した存在に気付いたのは、新しいメディアの最前線で大衆とともに育つという特異で特殊な環境にあった人。

 

特異で特殊な環境のなかで育ちながらも、柔らかな知性で大衆を魅了して家族に愛されていた。

 

権威をより強固に塗り固めるために使われるような、かっちんこっちんの知性じゃなくて、生まれたものや愛されたものに寄り添うように、もっと柔らかい。

 

それまで誰も見たことがないほど新しいものは本来、してはいけないややってはいけないからは遠く、もっと自由。自由な空気のなかで、存分に自由を謳歌したから気付いた不自由さや不自然さが、きっとバナナを食べる魚。

 

彼のように特異でも特殊でもない環境にいる、でも自由さではどっこいどっこいな、ただの女の子の目にもバナナを食べる魚が見えた日に彼が生を終えるのは、わかる人にはわかるよう、世代交代を告げるものだったのかも。

 

50年や100年スパンで振り返った時の特異点は、どう扱うのか。未来の先取りと見るか、それとも特異点だから後は続かないと見るか。

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ライラックの花が咲いてるのに気づいた後に、雪降ったんだけどさ。

晦日なのに、街中では雪が積もる気配もなし。本来初夏を告げるはずの大通公園ライラックが、11月に咲いたのは未来の先取りかそれとも特異点か。自然の摂理に反して不自然だったものが自然になる。その先触れだったんだよ、アレは。ということにでもなるのか。

 

撮りためただけでほったらかしの写真の整理をするにも、ちょうどいいお正月休み。1月はスロースターターで、はじまりから相も変わらずのんびりしたい。