クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

始末で日常

クリスマス以降は食べ物でいっぱいだった冷蔵庫。お正月を十日も過ぎると、ようやく隙間が見えるようになってきた。

 

とはいえお正月用にと買った食材、主にタンパク質はまだ残っている。足りなくなるよりはと、12月は食料品をたっぷり買い込む時季。その反動で、1月は緊縮。7日の七草粥に15日小正月の小豆粥(あるいはお汁粉に善哉)は、年末年始で飲み過ぎ食べ過ぎた後の体や財布を労ったものでもあるのかも。

 

たっぷり食べて栄養を蓄えたあとなら、素食でもヘーキ。

 

寒い季節は運動不足になりがち、意識しないと過食傾向になりがち。メリハリにハレとケ。出るべきところは出て、引っ込むべきところは引っ込んでいると、ナイスボディー。体型も家計もかくありたい。

 

クリスマスにはハムステーキとして活躍したハムブロックは、ソーセージとともに年末にはチーズフォンデュに使い、最後はお正月によく使う根菜(ごぼうやレンコン、大根)でポトフに。

 

切り落としにサクにホホ肉に。マグロで自家製ツナを作っておくと、サラダの具になったり朝食や軽食用のツナトーストが作れたり。年末年始とはいえ、ごちそうばかり食べているわけではないから、普通の食事に重宝した。

 

 

マグロのホホ肉は、ブリと同じように漬け焼きにしてお正月用に。いつも出回っている食材ではないから、非日常感のある一品になった。ローストビーフは魚の粕漬けのように酒粕に漬け込んでみたけれど、酒粕の量が多過ぎたせいか酒粕の香りがやや鼻についたので、焼いて火を通した方が美味しかったかも。


f:id:waltham70:20250111162316j:image

f:id:waltham70:20250111162313j:image

カレーにするかそれともビーフシチューかハヤシライスか。何にするか決めないまま、ルーやスパイスを加えれば完成という状態(冷凍)でストックしておいた角切り肉の煮込みは、結局ナスを合わせてカレーにし、焼きカレーにしてお正月料理には飽きてきた3日目用にした。

 

伝統的なものだけだと食が進まないから、非伝統的なものも合わせ、食べやすいようにと配慮した結果がタンパク質多めの料理。個人的には焼き生麩が特にお気に入りで、日常の食事に戻った時の白菜の浅漬けや厚揚げの煮物が特に美味しく感じるくらいだから、やっぱりタンパク質多め。というか過剰。

 

新鮮な野菜で作った例えばサラダに、揚げたて焼きたて熱々のおかず、例えば天ぷらにステーキや焼き肉に揚げ物は、作りたてだからこそのごちそう。

 

関西には、蒸し寿司というものがあるけれど。酢飯に魚の扱い方。江戸前寿司の技とはまた別のベクトルの技の集積で、おもてなしの一種。

 

おもてなしは、食べる側の気持ちや目線にならないとできないものだから、客になったことのない人にはおもてなしはできない。そういうものでもあるかも。

 

観光地は、もてなす側の人が別の局面ではもてなされている。そういう場所だから、健全な観光地ほど洗練されていく。洗練とは逆の方向に向かうなら、何かが機能していない。旅慣れた人はその種の兆候に素早く気付くものなのかも。かもかも。


f:id:waltham70:20250111162144j:image

f:id:waltham70:20250111161948j:image

(左の雪たっぷり写真は年末、右の写真は年明け。赤い実がついた木、よく見ると何かが変。)

今年のお正月は、鴨肉の新しい料理にも挑戦。素材が良かったせいか、それともそもそも鴨肉という食材のせいか。初めてにしては我ながら上手にできた。

食べるから動く

おせちに使う黒豆は、甘く煮るのに飽きたらフライパンで炒って(量にもよるけど弱火~中火で10分~15分くらい?)炒り豆にして、炊き込みご飯にすると目先が変わって美味しく食べられる。

 

炊き込むとき、ついでにソーセージやベーコンを入れるとピラフ風。あとは残り物の野菜でサラダやスープを作って添えれば、残り物とはいえバランスのいい一食の出来上がり。

 

黒豆・栗きんとん・ごまめ。とりあえずこの3種さえあれば、お正月っぽい。

 

お節の肝心なところは、豪華であればあるほどいいけれど、保存がきくことが一番大事。3日でも一週間でも食べられる、調理済み食品の詰め合わせでパッケージ。それが本来のお節料理。


f:id:waltham70:20250105131732j:image

f:id:waltham70:20250105131735j:image

数の子の塩抜きを忘れていたので、初日は数の子抜き。二日目になるとかまぼこをバラに飾る余裕も、お煮しめに椎茸やこんにゃくも忘れずに盛れた。牡蠣は忘れなかったけれど、冷凍庫にストックしておいた帆立の山椒煮は出し忘れて今でも冷凍庫のなか。多分、家庭で起こりがちなことは、業務上でも起こりがちなはず)

 

だから、コンビニやスーパーもなければ予約せずに使える飲食店もない、僻地ほどこの種の食べ物は必需品で重宝されて、有難味が増す。

 

そもそも交易の場が限られている。流通網の整備もさほど進んでいない場所から、自家消費用の物資、自家消費用の生産地や生産手段さえ消えたらやっていけない。だからゴーストタウンが生まれて、生きてる人は移動する。

 

2024年は2023年に引き続き、今まで行ったこともない所へ行き、使ったことのない交通手段を使ってウロウロしてた。

 

私鉄や地下鉄などなく、JRしかない。車での移動が正解の場所で、敢えて正解以外の手段を選ぶと、公共交通の本来の意味がよくわかった気がする。

 

意味があるから、細々でも続いている。意味がなくなったら続かない。

 

国際化の兆候は、まずは観光客から。それまで日本人しか来なかった場所に、日本人ではない人が混じるようになり、日本人しか来ないから日本人向けの商品しか並んでなかったお店に、日本人ではない人向けの商品が混じるようになる。

 

食品は、その変化がわかりやすいもののひとつ。元々は外国由来で日本にも定着したものは、安価で作りやすいレシピが普及すれば、外で買うものから家で作るものとなる。本格的なものから素朴なものまで。パンもケーキも家で作るようになると、各家庭で小麦粉がストックされるようになる。

 

パンやケーキ以外にも麺や点心、使い道はいろいろあるけれど。

 

普及品を使って自分で作ったものと、その辺のスーパーやコンビニで手軽に手に入るものとの価格や完成度を比べた時。完成度が高く、値段の桁に10/1や100/1ほどの開きがあれば、街中でいつでも手に入って買えるものほどグローバル。そもそも生産量も消費量も、桁が違うものなんだとわかる。

 

だからローカル、その国やその土地由来の食べ物、お菓子や保存食などの加工品だけでなく、野菜や魚、肉に至るまでその調理法を含めて常にグローバル、国際競争に晒されているといっていいはず。

 

公共交通といえばJRの、1時間に数本あるいは1本来るかどうかで、駅へといたるバスさえない。そういうローカル線の姿が、グローバル競争に晒される、というか脅かされているローカルフードの現在の姿に重なった。

 

ローカルな食べ物、名物と言ったって、てんてんてんで、人が住んでいないわけではない地方都市、誰でも知ってる量販店ばかりが目立つその土地は、地方=ローカルに在ってローカルなものを必要としない、そういう場所なんだと思った。

 

日本人が来なかった観光地に、日本人以外の外国人も大挙して押し寄せるようになったとき。例えば京都、例えば浅草。その地に最もふさわしくないお店が、目立つ場所に出現することがあるけれど。

 

観光地という、土地の性格が濃縮された姿で、その土地に最もふさわしくないけれど目立つ。目立つから一定の集客効果があって、他の似たような建物と間違えることなくたどりつける。ローカルなものと一切関わりなどないけれど、観光地をエンジンとして使いたい時に出現する姿で形なんだと思えば納得しやすい。

 

ローカルなものと一切関わりがない時に出現する姿、時にえげつない見た目は、ローカルとの縁ができたり、ローカルとの関わりが深くなるほどにマイルドになっていき、最後はその土地ともよく馴染んで親和性のある姿に変わっていく。そういう性格のものでもあるんだと思う。

f:id:waltham70:20250105131834j:image

観光地の目立つ場所が変わっていく。その一方で、観光とは無縁の地方都市も変化がないようでいて変わり、例えばローカルな土地にあってローカルなものなど必要としなかった。そんな土地やお店にローカル由来のものが増え、あるいは名物ができて、名物などなかった以前の土地の姿はもとより、それ以前の姿など誰も思い出せない。てん、てん、てん。

 

となった時から、新しい何らかの名物とともに新しい歴史を歩み始め、久しぶり、何十年ぶりというサイクルで帰ってきた、あるいは訪れた人を戸惑わせる。

 

そういう光景が、静かにいろんな場所で進行していく。そんな気がした。

 

100年前や50年前の歴史は残りやすいけれど、30年くらいの浅い歴史は残りにくくて改ざんされていく。土地という器が残され、人がいなくなったあと。新しい人がやって来たら、新しい何かを注ぎ始める。そんなイメージ。


f:id:waltham70:20250105132001j:image

f:id:waltham70:20250105132009j:image

f:id:waltham70:20250105131957j:image

(年末、2024年の12月29日は雪景色)

お正月は、とにかく天気がよかった。時々雪が散らついたけれど、今年のお正月を振り返ったとき、思い出すのは青空。気持ちよく晴れた青い空が広がっていた。


f:id:waltham70:20250105132046j:image

f:id:waltham70:20250105132055j:image

f:id:waltham70:20250105132051j:image

見送りに行った空港も、よく晴れていた。お正月とあって小さなお子様連れいっぱい。雪は降ったけれど、肝心な時にはちゃんと止む。小さなお子様連れに優しい神様、今年のお正月は北海道だったみたい。

選んで、選ばれる。

1974年から現代まで。この五十年間でアメリカ大統領に就任したのは、9人。一方その間日本の総理大臣に就任したのは26人。

 

大統領にフォーカスした現代アメリカ(政治)史、『大統領たちの五〇年史 フォードからバイデンまで』を読んだ。

 

颯爽と登場し早世したJFKが山なら、ウォーターゲート事件で悪名を馳せたニクソンは谷。山と谷をへて半世紀も経てば、超大国の立ち位置も変わり、環境が変われば最高権力者として選ばれる人物も変わる。

 

本書はニクソンの辞任を受けて登場したフォード大統領から始まっているけれど、フォードって誰?状態。だったので、現代から遡っていく方が退屈せずにわかりやすく、第八章トランプ対バイデンー死闘から読み始めた。

 

各章は短く、それぞれの大統領についても個人像を掘り下げてはいない。最低限知っておくべき事柄について簡潔にまとまっている。簡潔だけど無味乾燥ではなくドラマチック。4年ないし8年が詰まっているから、どの章も読み応えたっぷりで社会派の映画やドラマ、エンタメを見るより実在の人物だから面白い。

 

アメリカ政治、あるいはアメリカの大統領について基本を押さえたい人向け。外交・財政・軍事。あるいは文化や芸術。もの足りないと思ったら各自で足せばいい。

 

まずはバイデン氏・トランプ氏にオバマ氏。公的な業績よりもリアリティー番組出身者、奥さんや娘さん、あるいはご子息、初の黒人大統領といったゴシップに分類されるような事柄により詳しい。

 

彼らはSNS普及後(普及期含む)に登場した大統領だから、よく知られているエピソードはSNSで拡散されたもの。接した情報やメディアが、親米的か親共和党的か親民主党的かで取り上げ方は変わり、受け取る側の印象も歪められて変わる。

 

メディアが権力に迎合的とは限らないから、ことさらバカっぽいエピソードが強調されがち。バカっぽいエピソードの消費期限が消えたあとに残るものが功績で業績なんだと思う。

 

権力に迎合的ではないメディアが、決して報じず報じられない部分にこそ各権力者の本当の姿があり、だからメディアの下馬評とは違う結果が選挙の結果として現れる。

 

来年2025年1月には、トランプ氏が二期目の大統領として登場する。彼が夫人や子供、孫を従えメディアの前に登場する姿は、(内心は嫌々、渋々でも)メディアがどう報じようと彼らは子供や孫にいたるまで表舞台に登場するし勢揃いできることを示している。

 

3億超の人口の代表、人口のなかにはその出自、共和党員で白人という属性ゆえに反感を持つ、友好的ではない人も含んで時には中傷される。国の代表として、アメリカ万歳・白人万歳ばかりではない全世界の人の目にも晒される。

 

公職者として最高の権力を持つ代わりに、プライベートは最大のリスクに晒される。

 

フォード大統領って誰?ではあっても、カーター氏以降の大統領については外交面や財政面、あるいは軍事面から見た正当あるいは妥当な評価には疎くても、とりあえず名前だけは知っている。

 

大統領だけでなく、時には議長や司法長官、FRB議長など政権の要職にある人の名前を知っている。それも、同盟国とはいえ外国の。という状況は考えてみれば奇妙で、例えばイギリスやフランスの首相や大統領。代表についてはともかく、政権関係者についてはより疎い。

 

疎くて、当たり前。知ろうとしてなくても情報として接しているならそれはロビー活動の一担で、アメリカのロビー費は莫大で巨額でその活動は広範囲に及んでいるということだったんだと思う。

 

そして日本のような同盟国でロビー活動が活発なのは、半世紀前から継続的にアメリカが戦争や紛争を対外的に行っているからで説明がつくはず。

 

厭戦気分や好戦気分は、共有する人数が多いほど高揚感も増す。アメリカが何らかのポジティブキャンペーンに使いたいときはポジティブなネタが投下され、ネガティブキャンペーンに使いたいときにはネガティブなネタがより多く投下される。

 

そういう構図から意識して距離を置かないと、対象に対して第三者ではいられない。

 

各々の4年ないし8年間には多分に選挙が含まれていて、大統領は選ばれるものと強調される。

 

リベラルな判断が時に嫌われるのも、選ぶ側にはリベラルでない人も多数含まれるから。だから、スペックだけ見ればより魅力的に映る候補者が現れたとしても、結果としてその時代のアメリカ代表に選ばれたのは、フォード(選挙で選ばれてはいないけど)・カーター・レーガン・パパブッシュ・クリントン・ブッシュ・オバマ・トランプ・バイデンの9人。

 

大統領選は美人コンテストやオリンピックのように、最も優秀な人や最も魅力的な人を選ぶ場ではないから、選ばれた大統領をみればその4年ないし8年の、選んだ人たちの空気や気分がより濃厚。流動性を伴った移民大国の、ある時期がピン留めされてるとも言える。

 

個人としてどれほど優秀で有能であっても、団体戦で勝てるメンバーを揃えて動かせないと結果は出ない。そして個人としても有能で優秀、勝てるメンバーも揃えられる候補者が、時として手段を選ばない想定外の悪意によって引き摺り下ろされることもあるのが、”選ばれる”というシステム。

 

悪辣な手段もためらわない。その種の悪意に対しても邪悪になれず、正攻法で立ち向かうしか術がない方は無力。だけど、そもそも善良で正しい行いに事欠かない。それゆえに敬意のようなお金では買えないものを得ていると、無力に見えても無力ではなくなり、敬意という盾に守られる。

 

だから、同盟国とはいえ政治制度が異なる日本にまで死後であってもその名が伝わってくる。

 

50年間で9人の最高権力者に対して日本は26人だから、それぞれの権力は小粒で本当のキーパーソンが誰なのかわかりにくい。

 

一方、フランスの大統領は任期が異なって長いとはいえジスカールデスタンから数えれば、たったの6人。対USドルの為替を考えた場合、ユーロ > USドル > 日本円なのも、長期で安定したものに人は安心感を感じるからだと肌感覚でわかる。

 

選ばれるなら、よい集団の代表に選ばれたい。選ぶなら、よい集団のなかから選びたい。その心理が流動性を加速させ、アメリカでは今も人口増が続いているんだとも思った。

 

ロックフェラーセンターのクリスマスツリーに明かりが灯るセレモニーは、クリスマスの風物詩。目の前で実物を見たことはないけどそういうものだと聞き知っている。


f:id:waltham70:20241225124902j:image

f:id:waltham70:20241225124854j:image

f:id:waltham70:20241225124858j:image

テレビ塔も、見ようによってはクリスマスツリーに見えるクリスマスシーズン)

流動性が加速し、新しくて経済力のある層に配慮したポリティカルコレクトネスに配慮するようになると、伝統であってもこの種の行事は大々的にとはいかなくなる。札幌も、いつからかは知らないけれど、クリスマスにはクリスマスマーケットが開かれる。


f:id:waltham70:20241225125025j:image

f:id:waltham70:20241225125137j:image

f:id:waltham70:20241225125142j:image

それがこの街の歴史で、人でもものでもとかく長いものに人は巻かれやすい。クリスマス前は雪が少なくて、どうなることかと思ったけれど雪が降ってホワイトクリスマスに。クリスマスシーズンだけを見れば変わってないという印象になるけど、ほんとは変わってる。

雪だるま作ろうと言えるような雪は、今はどこ

日本海側が終日雪になっても、太平洋側はそうでもない。

 

北の玄関口である札幌は、北海道といえばまず最初に思い浮かべる街で日本海側。日本海側だから、200万人近くが住む都市にしては積雪量の多い土地。雪が多く、玄関口にしてはちょっと内陸に引っ込んでいるけれど、函館戦争を経ての結果だと思えば納得。

 

今年も夏は暑く、いつまでも気温が高かったせいか雪は少なめ。中心部に近づくほど雪だるま作りやソリ遊びにピッタリな場所も見つけにくくなる。


f:id:waltham70:20241220155425j:image

f:id:waltham70:20241220155421j:image

(12月14日(土)と12月17日(火)の景色)

札幌駅から中島公園までの駅前通りは、札幌でも最も通行量が多く観光客も多いエリア。ロードヒーティング&人力大作戦もバッチリで、吹雪いてさえいなければテクテク歩くのに大して問題はない。

 

12月1月は、つい食べ過ぎになる季節。だから軽運動がしにくい冬季でもテクテク歩ける場所は貴重で、中心部の快適度は年々改善していってる。

 

すすきのの交差点、ニッカの看板の前やココノススキノの前は、地面のお値段おいくら万円かしら?と思うような場所。東京でいえば銀座4丁目の山野楽器店のようなもの。(←地価の高い場所として有名)お金がないと買えないけど、お金があるからといって買えるような場所でもないはず。

 

それが私用でも商用でも公用でも。とにかくやってくる観光客の数も多いせいか、北の街とは思えないほど歩きやすくなった。何度も用事で札幌に来るような人は周辺事情にも詳しくなるから、泊まるなら雪がない方で大勢が集団で行動すると、街の様子はあっという間に変わる。

 

変わらないのは集団で行動して何かを変える必要などない方で、まぁそうだよねと思いながら中島公園へ。


f:id:waltham70:20241220155723j:image

f:id:waltham70:20241220155731j:image

f:id:waltham70:20241220155727j:image

中島公園の中は雪景色で、池もちゃんと凍ってる。すすきのの交差点から1キロあるかどうか。公園の中だけ見ていれば、いつもの冬と変わりがないように思うけれど、公園へと至る道の様子は様変わり。

 

公園の中の雪道も、歩きやすいようにか滑りやすいようにか踏み固められていて、雪景色で雪道だけど、歩いてみると以前とは違ってる。

 

駅前通りから公園へと続く横断歩道で信号待ちしていると、左手には新しくできた外資系のホテルが目に入るようになった。ここ数年で、新しくできたホテルやリニューアルしたホテルの数、合わせればどれだけ。という場所だけに、用事で頻繁に来るようになった人の顔ぶれが変わると街の様子も変わるんだとよくわかる。

 

ふかふかに積もった雪の上を歩くのは、フラットな道を歩くより大変だけど運動量は1.3倍から1.5倍。運動するには効率がいい。

 

この場合、フラットにすることは効率が落ちることと同意で、効率が落ちるのが嫌いあるいは効率が落ちたらそもそも生きていけないと、他所への移動も加速し街の新陳代謝も進む。お金が落としやすくなって落としたお金が使われやすくなると、フラットになる。フラットになる代わりにいかにもな雪景色は少なくなって、観光資源が消える。消えた観光資源の代わりとなる産業が、あればいいんだけどさ。

 

来る人の顔ぶれが変わろうとどうしようと変わらなかった。変わりようがなくずっとそのままだったエリアは、変わる必要などない場所。変わる必要などなかった場所に手をつけてしまったら、もう変えるしかなくなる。

 

そのサイクルを既に経験済みだと、変える必要などない貴重なものには滅多なことでは手を出さず、貴重さがわからないのならと、貴重なもののある場所が変わる。

 

Don't be evilにDo the right thing のような戒めは、この種の戒めがないと容易に邪悪になって好悪、好き嫌いで判断しがちな傾向に先回りしたもの。ねぇ、君たちのせいで分断は深まるばかりだったよ?ならお飾り。邪悪になって好悪で判断し、嫌いな側に一人もいなくなったあとで正しいことだけする。だったら、ねぇそれなんて独裁?で、正しくなかったけれど長生きな側をわざわざ引っ張り出すんだろう。

 

より良くといった場合、もともと白紙の方がそりゃ何でもやりやすいけれど、歴史を重ねた人にも土地にも通用しない。


f:id:waltham70:20241220155954j:image

f:id:waltham70:20241220155951j:image

絵に描いたような雪だるまはできないけれど、それでも雪だるま作りたかったんだ。というビギナーに厳しくすると、そもそもビギナーが寄って来なくなる。ビギナーに優しい場所が、ビギナーの生存確率がより低い方だったら行かなくてもいい。顔ぶれが変わった時には、それくらい用心深くなった方がいい。

 

お金では買えないものがある世界の方が過当競争や万人の闘争状態に陥らず、結局は生きやすい。そうだと実感できるから、革命を経験した国が往々にしてお金では買えないはずのものを大事にするようになるのも理屈が通ってわかりやすい。

白菜のポタージュスープ

本格的に寒くなってきたので、ポタージュスープが嬉しい季節。

 

にんじん、かぼちゃ、カブ、じゃがいも、さつまいも、玉ねぎ、ビーツ。色々な野菜でポタージュスープを作ってきたけれど、冬に美味しい野菜といえば、白菜。白菜とネギといえば、鍋には欠かせない食材。

 

その白菜とネギで、ポタージュスープを作ってみた。出来たのは、白いポタージュスープ。

f:id:waltham70:20241205180925j:image

(タイムを飾ってみた。葉先も使っているのでやや緑。白い部分だけ使うと、より白い仕上がりに)

ざく切りにした白菜と小口切りにしたネギをバターで炒め、水とブイヨンキューブを加え、ハーブソルトなどで味を整えたあとは柔らかくなるまで煮る。あとはブレンダーでペースト状にすれば、白菜のポタージュの出来上がり。

 

白菜1/8にネギ半分で、2カップ分はできる(←加えた水の量は2カップ半ほど)。白菜1/4くらい、あっという間に消費できる。白菜の白い部分は煮ると甘くなり、甘味のある野菜なら大体どんな野菜でもポタージュスープにすれば美味しくなるだろうと思ってる。

 

牛乳や生クリームを加えてもいいけれど、白菜とスープだけでも充分に美味しい。シンプルに季節の野菜のうま味を味わいたかったら、シンプルにポタージュで味わう方が好み。和食でいう”すり流し”は、こんな感じなんだろう。

 

市販のブイヨンキューブの代わりに、鶏肉や豚肉などをゆでた茹で汁や、あるいは魚介のゆで汁などを使うとよりオリジナルな仕上がり。肉類の茹で汁か魚介の茹で汁かは、こぶだしかかつおだしか、それとも煮干しだしかのようなもの。

 

手に入りやすく安価かつ好みのもので作ると”わが家””わが地域”の味になって、一般的にどこでも手に入りやすいものを使うと、一般的な味になるんだろう。

 

白菜の一般的な食べ方といえば、まずは漬け物か鍋。朝ごはんは和食派でもなければ、朝から白菜は多分あんまり食べない。サラダ、という手段はあるけれど。ポタージュにすると朝から体も温まり、かつ汁物なので胃もたれもしにくい。

 

生野菜は生のままだと一見量はすごく多いように見えても、火を通してしまえばあっという間に量が減る。

 

この種の食材は、量が少な過ぎると消費のスピードに追い付かず、多過ぎると消費できずに余らしてしまう。自然と在庫管理に敏感になるから、本来生鮮食品の取り扱いが多い店舗ほど、在庫管理にも長けているはず。生鮮食品を消費地に運ぶ側は、どこが上手で上手でないかもよく知ってるはずで、その差が店舗にも現れるはず。

越えようとしないと、越えられない。

コロッセウムにグラディエーター円形闘技場で死闘を繰り広げる剣闘士を世界的に有名にした映画、『グラディエーター』。

 

オールタイムベスト間違いなしの名画の続編、『グラディエーターⅡ』の主役はルシアス。

 

祖父は哲人皇マルクス・アウレリウス、叔父である皇帝コモドゥスにも愛され、笑顔とお日様がよく似合う明るい少年が、むさくるしい成人男性となって登場。おまけにルシアスの父親は、前作『グラディエーター』の主役マキシマスだって(←予告編でばらしてた)。

 

超展開にえぇっ!?とびっくり。内容が気になったので、映画館で観てきた。

 

オールタイムベスト入り間違いなしの名画の続編なんて、そもそも作るのが難しい。前作がベストだと思ってる観客の前に、素晴らしい傑作を用意してもコレじゃないと一蹴されるのがオチ。

 

グラディエーターⅡ』では前作と同じレベル、同じ水準ではダメとばかり海戦も登場し、作る方はより楽しかったんじゃないかと思わせる作り込みっぷり。四半世紀も経てば映画撮影の技術も観る環境も進歩する。これは、映像も音響も通常スクリーンより没入感増し増しのドルビーシネマ(at ココノススキノ)で観た人の感想です。

 

殴り合いは生々しく血も飛び散る。R15+指定なのも納得で、馴れ合いや手抜きの死闘では意味がない。その種の娯楽があるんだということを理解できるのは、やっぱり15歳以上。


f:id:waltham70:20241203094256j:image

f:id:waltham70:20241203094252j:image

f:id:waltham70:20241203094248j:image

(これは札幌駅前にあるもの)


人皇マルクス・アウレリウスの娘がルシアスの母。皇帝の娘婿であるルシアスの父は、前作ではすでに故人でただ影が薄かった。一方前作の主役マキシマスは、ローマ軍、つまり当時世界最強軍の将軍にして英雄。政変で奴隷となっても剣闘士として勝ち上がり、ついには皇帝コモドゥスを闘技場に引っ張り出して勝利した、伝説級の英雄。

 

その英雄マキシマス(演じるラッセル・クロウはこの役でアカデミー主演男優賞獲得)が、”あなたの本当のお父さんよ”と長年音信不通だった母に突然告げられても、知らんがなで放り出してもいいところ。立派過ぎる出自とともに放り出してもいいところ。

 

五賢帝の時代はすでに遠く、ローマの絶頂期も過ぎている。

 

人皇マルクス・アウレリウスもその息子のコモドゥス帝(ルシアスの叔父)の時代もペンと剣。最高位にある皇帝でさえペンと剣を自らとってふるっていた。ルシアス成人後『グラディエーターⅡ』の時代では、白塗りの皇帝がおもに手にしているのは酒杯。鍛錬もなく、戯れに剣をとっては振り回す。


f:id:waltham70:20241203094414j:image

f:id:waltham70:20241203094410j:image

f:id:waltham70:20241203094418j:image

大自然にいるはずの動物が、人工物ばかりの街中で飛び跳ねている)

絶頂期を過ぎたとはいえ、強大な外敵など見当たらない。ローマの弛緩した空気や退廃は、すでに市民にまで及んでいる。正しいものと良いものばかりだった、マキシマスの時代とは、あらゆるものが変わりつつある。

 

そういう状況で、英雄の父を持ち立派過ぎる出自をそんなの知らねーで放り出し、そうではなかったその他大勢と同じように振舞ったところで、すでに堕落あるいは脱落した市民やその他大勢を喜ばせる、あるいは娯楽の種を与えるだけ。

 

オールタイムベストに入るような名作の続編は、作ることがすでに挑戦。


f:id:waltham70:20241203094518j:image

f:id:waltham70:20241203094513j:image

f:id:waltham70:20241203094522j:image

(自然の中では愛らしい動物も人工物の中に置かれると猛々しさが増す)

その映画のなかで、前作では登場するだけで愛され歓迎された。ただ愛らしかった子供がむさくるしくなって、王宮や宮殿とはかけ離れた荒んだ世界で自身を鍛え、自分とも敵とも戦っている。

 

挑戦をやめ、”越えられないからこれでいい”となったとき。越えられないが天井となって、本当に越えられなくなる。

 

だから、こんな作品あるいは英雄の父・立派過ぎる出自も放り出すことなく越えようと、主人公が作品が作り手がチャレンジを続けると、越えられないはずのものさえ越えられる。

 

アカデミー作品賞を取り、主演男優賞を受賞した。

 

過去の成功体験を上回るのは難しいは、五賢帝の時代、パックスロマーナを超えるのは難しいと同義で、作品・時代設定・主人公そのすべてに共通するのがチャレンジ。

 

絶頂期を過ぎたとはいえ無敵で当分安泰。だから、ペンも剣も持たず鍛えずただ怯懦に流されている白塗りの皇帝=リーダーの姿は、”自分たちの器以上のリーダーは持てない”を表現しているよう。

 

ペンで、あるいは剣でリーダー”ではない方”の器を大きくしようとするリーダーはだから偉大で、偉大なリーダーのもと文化は発展する。

 

子供だったとはいえ五賢帝の時代を知っている。英雄の正しい行いも見ていた。そして、正しくも良くもない世界も見ている。

 

父マキシマスのようなカリスマにはならないまま理想を追う、ルシアスの時にスマートでないふるまいの数々はその他大勢の人と等身大。英雄ではない青年の姿としてありふれていて、好感がもてた。

 

英雄はめざすものではなく生まれてくるもので、ありふれた人の中に英雄が潜んでいるんだとも思った。

 

特にクセは強くない。けれどそのふるまいや出す結果は英雄そのもの。英雄をよく知る人が、英雄ならやりがちありがちなクセを消していくと、らしくないけど英雄という虚像を作り出して演じられるのかも。かもかも。

 

古代ローマも剣闘士も非日常。だけど不思議と日常との連続性を感じるのは、非日常を求めて右往左往する群衆の姿がとっても見知ったものだから。

 

比較する名作を知る人と知らない人とでは、大きく評価が変わる。そういう映画だとも思った。


f:id:waltham70:20241203094559j:image

f:id:waltham70:20241203094603j:image

師走前にまず始末

100g35円。800gちょっとで300円ちょっと。

 

税抜き本体価格なら280円台という、諸事物価高騰のおり、近頃ではめったに見ないお買い得品。その見た目も滅多に見掛けない魚系たんぱく質でちょっとグロかった、マグロの血合い。ブリ照り、ブリの照り焼きだったらちょっとだけ色が濃くなった、あの部分が血合い。

 

マグロになると血合いの部分もビッグサイズで、何を作ろうかとワクワクしたけれど、割とあっさり片付いた。

 

見たことのない食材、それもお買い得価格で量もたっぷりあった時。創作意欲が刺激されるのが趣味的に調理してる方で、創作意欲が減退するのが義務的に調理してる方。という見分け方は、一面では真実だと思う。

 

水洗いしてキッチンペーパーで水分をよくぬぐったあとで、まずはオーソドックスに煮付けにしてみた、マグロの血合い。生臭いかと心配したけれどそんなことは全くなく、美味しく食べた。GOOD。天かすとだしとしょうが汁で作った、たぬきご飯との相性もよく、最近では作る人も食べる人も減ったかもしれない、かつおのなまり節の煮物を思い出した。

 

自家製ツナを作ろうかと思ったけれど、油を大量に使うので単に蒸して揚げて、カツにしてみたマグロの血合いカツ。GOOD。

 

パン粉の代わりに麩、車麩を使ったのでパン粉で作る揚げ物より見た目はこんがり。お味噌汁(すき焼きの時にも使うけど)に使うのは焼き麩、車麩は煮物に使うとたんぱく質代わり。戻すときには水ではなくだしで戻すと味が薄くならず、味もよく染みる。

 

揚げ物以外の使い方として、ラザニア風にも挑戦。

 

玉ねぎと合わせたトマトソースと、ペンネ・マッシュルーム・あさりに角切りにした血合いをホワイトソースであえ、仕上げにチーズとパセリ。ツナクリームのグラタンorツナクリームパスタにヒントを得て作ってみた。GOOD。

 

ツナと塩こぶで作る炊き込みご飯が好きなので、ツナの代わりに血合いで作った炊き込みご飯も、あっさりしたピラフ風でGOOD。何杯でもお代わりできる味で、食べ過ぎ危険。叩き梅と合わせておにぎりにすると、梅干しの酸味が加わってこれもまたGOOD。

 

煮物、揚げ物(カツ)、ラザニア風グラタンに炊き込みご飯。これだけ作っても、まだ下処理した血合いは残ってる。さすが800g、量たっぷり。

 

色が濃いからひき肉のように使えばよく、ひき肉のように使えるけれど脂身は含んでないのでひき肉よりヘルシー。ひき肉の亜種だと思えば、レパートリーは無限。

 

無限で使い道が広い。かつ、お手頃価格だから滅多に出回るものではなく本当にレアものだったに違いない。


f:id:waltham70:20241129143600j:image

f:id:waltham70:20241129143555j:image

f:id:waltham70:20241129143550j:image

雪が降って積もっても、一瞬で解ける。といえ寒くなったので暖かい汁物がうれしい季節。ゴマ豆腐といえば冷たいまま食べるものだけど、煮奴のように煮て野菜(春菊・白菜など)を添えると、寒い季節にも食べられる一品ができた。


f:id:waltham70:20241129143653j:image

f:id:waltham70:20241129143657j:image

f:id:waltham70:20241129143701j:image

(雪は降ったし氷も張ったけど、氷薄そう)


できたといえば、切干し大根を柔らかくなるまで湯通しし、ピクルス液に漬け込むとザワークラフト風。

 

使えるものは全部使う。天かすやおからのような副産物も取り入れる。高野豆腐、麩、切干し大根などの乾物は時にホニャララ代わりで便利にも使えて、長期保存が効く。

 

そのすべてに共通するのは”始末”の発想で、きれいに始末がつくからこの種の食材と、食材を使った調理法が好きなんだ。という人の冷蔵庫の中身はきっと、洋の東西を問わずにスッキリしてるはず。


f:id:waltham70:20241129143908j:image

f:id:waltham70:20241129143904j:image

ホワイトイルミネーションもクリスマスマーケットも始まったので、日が落ちたあともキラキラしてる、札幌市中心部。大都会に比べればささやか。ささやかだからキラキラを初めて経験する、小さいお子様連れでも安心して出掛けられる。

 

負担が大きい方の負担や難しさを減らす。その際には、誰やどこの負担に目を向けているのかで、大体の制度設計が見えてくる。