クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

スカーレットとチェーン店と。

ハムレットが異世界転生ものと出会って、主人公に華やかに激しく生きることが似合う名前を付けたら、『果てしなきスカーレット』。

 

映画公開時は見逃した『果てしなきスカーレット』を、Amazonプライムで見た。ハムレットといえばシェークスピアの有名な悲劇のうちのひとつで、to be or not to beと主人公が苦悩するお話。

 

『果てしなきスカーレット』は、ハムレットの翻案ともいえるお話だから、主人公のスカーレットも苦悩するけれど、その姿は華やかに激しく生きることがよく似合う名前を背負っているものだから、ハムレットが苦悩する姿とはだーいぶ違う。

 

さらに、異世界転生ものと出会うことで”復讐”とは全く異なる世界とも隣り合わせ、世界や視野を拡張する大切さも盛り込んでくる。

 

そもそもがハムレットという悲劇の翻案ものだから、見終わったあとはすっきり爽快という作品ではないけれど。恐らく何度も翻案を重ねた作品を、現代に通じるようにアニメで表現したらこうなるんだという意味で、面白い切り口だし試みだと思った。

 

ひどい目に遭う若年の主人公が、作品のなかで成長を、それも精神的な成長を遂げるというビルドゥングスロマンを踏襲してもいるから教養的で、その種の知識を動員して見るとより面白く見れる作品なんだと思った。

 

若干不謹慎だけど、超有名作を素材に何ができるか。という挑戦かつ冒険でもあって、挑戦かつ冒険に対して肯定感が強いと作品にも肯定的で、挑戦や冒険に対する肯定感が強くないと、作品に対しても肯定的になれない。そういう評価を引き出しているのかも。かもかも。

 

お盆休みに突入して、お盆ともなると空気もヒンヤリしてきて、初秋の気配も薄っすら漂ってくる土地柄。

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チェーン店(複数店舗がある、という単純な意味でのチェーン店)での食べ歩き体験がテーマのコラムをまとめた『令和になっても気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』*1も読んだ。

 

そもそも街歩き雑誌に連載されていたコラムだから、気軽に読める。構えずに読めるけれど、何十年もずっとチェーン店の盛衰を見てきた著者によるコラムだから、細かいところによく気が付いて、その視点や着眼点が面白かった。

 

コロナの頃のワンシーンを切り取ってもいるから、大袈裟に言えば現代史、特に生活や暮らしに関係する現代のワンシーンが凝縮されている。

 

列挙されるチェーン店の中には、そもそも馴染みが薄いお店も取り上げられているけれど興味を惹く箇所が何か所もあり、もしもチェーン店がなかったら街の景色や外食シーンの光景は、ずいぶんと違ったものだったろうと読み終わって思った。

 

用事があって、それなりの人口=市場規模がないと成立しないお店に出向き、その後お腹が空いたらどこで食事するのか。という食事や外食以外が目的で出掛けた時の食事問題は、大体チェーン店が担っているのが都市の姿といっていいはず。

 

あって当たり。普段は意識することもないけれど、もしもそれらのお店がなかったら、街の姿はどうなっていたんだろうと考えるのはあんまり愉快じゃない。愉快じゃないから、愉快ではないエピソードも含まれている。

 

未知なる外食チェーンのお店の名前もいっぱい出てきたけれど、街には次々と外食産業から新しい形態のお店が送り出されるものだとつくづく思った。そういう意味では、シリーズ4作目となる今作は、産業のお話でもあるんだろう。

 

気楽に読めるは構えずに入れると相似形で、ハードルの高いものしかなかった時は、本でもお店でも、手に取るはずがない。あるいは、手に取ってもらえる可能性はぐっと低くなる、という点でも一緒。

*1:kindle版2026年6月1日発行

『日本の定番料理 10の謎 ポテトサラダはなぜかっこ「おかず」になったのか』を読んだ

『きょうの料理』は、同名のテレビ番組かつ同名の料理テキストのタイトルでもあって、信頼できる料理番組かつテキストのひとつ。

 

時には『きょうの料理』に蓄積された膨大なデータを紐解きつつ、今では定番となった家庭料理の来歴をたどった『日本の定番料理 10の謎 ポテトサラダはなぜ「おかず」になったのか』*1を読んだ。

 

著者は、作家で料理家の樋口直哉氏。料理家や料理研究家には色々な個性があるけれど、著者の料理家としての個性をひと言で表すなら”理詰め”。

 

感性よりも理屈で料理と向き合ったレシピを多く持つ料理家で、料理と科学は遠いようで実は近いことを思い出させてくれる人。

 

今日(こんにち)では家庭料理と定番となった、肉じゃがにハンバーグにしょうが焼きといった10の料理も、時代とともに調味料の配合や素材、あるいは調理法を変えながら、今の形へと落ち着いた。という過去を遡ることは、今を知ること。

 

調理、それも理屈や理詰めで調理する人なら抱くであろう、どうしてこの料理にはこの種の工程がついて回るのかを、来歴を遡ることで明らかにし、無意味な工程とそうでない工程を明らかにしてる。

 

とはいえ現在の完成形から眺めた時、意味がないように見えてもある時点では正解だった。ということが往々にしてあるのもレシピや調理法で、現時点では正解から遠くてもそれはそれ。最適解はあっては正解はなく、自由でいいというおおらかさが調理する人にとって優しいと思った。

 

理詰めで効率を追求する。そういう調理と、理屈よりも例えば”美味しくなーれ”のような感性を取り入れた調理と。ひと口に料理といってもその取り組み方は様々で、そのどちらにも気配りが行き届いてた。だから、効率重視でもそうでなくても、どちらが読んでも読みやすいはず。

 

例えば、からあげにハンバーグにパスタ。家庭料理の定番で頻出するものだから、外食という選択肢も豊富なら、冷凍やチルドあるいはテイクアウトといった中食(ちゅうじき)の選択肢まで豊富なのが、ド定番となった家庭料理の現在地点。

 

からあげを例にとれば、からあげ用の鶏肉=素材に、調味料に、粉に、油にとそもそも家庭をルーツにした料理も今では産業や市場といっていい規模に成長しているはず。そして、一般消費者には見えないところで家庭料理を支え、市場や産業の影響を受けつつ家庭料理も形を変えていくものなのかも。

 

そもそも素材がなければ、調味料やツールがなければ、家庭料理も作り続けることはできなかった。

 

番組でもテキストでも、『きょうの料理』には、膨大な数々の料理家や料理人、料理研究家が登場し、家庭料理に伴走していた。城戸崎愛先生に、土井勝先生といった懐かしい名前にも出会え、ルーツを考えたこともない料理のルーツに触れられたことが、個人的にはいちばんの収穫だった。

 


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7月は気のせいではなくもひとつだった天気も8月に入れば回復し、爽やかだけど暑過ぎない、本来の札幌らしい季節がやってきて、こちらもひと安心。

*1:Kindle版2026年5月31日発行版

2026年に見る『ベルサイユのばら』は絢爛豪華

少女マンガに教科書があれば、『ベルサイユのばら』は必ず教科書に載るような作品。

その『ベルサイユのばら』が、2025年に劇場アニメとして映画になった。映画になったベルばらを、Amazonプライムビデオで見た。

 

原作とテレビアニメと舞台の三者が渾然一体となったようなミュージカルアニメ、斬新。

 

教科書があったら必ず教科書に載るような作品とはいえ、原作もテレビアニメもずいぶん昔のもの。今そのまま見るのはキツかろうという訳でもないだろうけど、原作の雰囲気はそのままに、現代風にアレンジされていていろいろ驚いた。

 

まずミュージカル仕立てのアニメ映画というのが斬新で、斬新だけど作業用に流し見るのにちょうどいい。少女マンガ史に燦然と咲き誇る大輪の薔薇のような作品を、流し見るのにちょうどいい着地点に持ってくるには、こういうやり方があったのかとまず驚く。

 

何しろ舞台はフランス革命前夜。男装の麗人オスカルにフランス王妃マリー・アントワネットと、ドラマチックな時代を舞台にドラマチックなエピソードてんこ盛りストーリーが展開するものだから、作品とがっつり向き合ったら日常生活に支障が出そう。

 

日常生活に支障が出ない範囲内で繰り返し視聴に耐えるのがロングセラー作品の大事なところ。そういう意味で、軽く見られる趣向にしたのは大正解だと思う。何しろ原作は大作だから。

 

主人公はオスカル。男装の麗人オスカルが、フランス革命前夜という激動かつ動乱の時代に活躍するというストーリー構成が明確で、原作ではオスカル退場後はマリー・アントワネットを軸にした歴史ものになっていくけれど、映画はそうじゃない。

 

マリー・アントワネットという実在する歴史上のヒロインが作品の魅力になっていることは確かだけど、男装の麗人という架空の人物を配したことが、ベルばらが大成功した理由。

 

男装の麗人で男性的な思考に男性的な振る舞いでありながら、好いた惚れたの恋愛もちゃんと進行する。なぜなら、それが少女マンガだから。

 

好いた惚れたという感情の問題に感性、つまり心に関する事柄により丁寧に取り組んできたのが少女マンガというジャンルで、だから少年マンガとは別ものだった。

 

激動や動乱の時代にあって心の問題、感情は置いてけぼりになりがちだけど、ロボットと違って人間には感情がある。

 

好いた惚れたといった恋愛にフォーカスした作品でもあるけれど、激動や動乱の時代にだって感情はあるからこれはこれでいい。軽やかにライトになったけれど、往年の少女や女性たちを熱狂させたエッセンスがギュギュギュッと詰まってた。

 

生粋の貴族生まれの女性が男性として生き、フランス国王妃付きの近衛兵となる。そして近衛隊長から、衛兵隊長となりフランス民衆を守る兵士=戦士となるという、今見てもすごいストーリー。

 

改めてみると、美しく生まれた女性に与えられた美しいストーリーが自己犠牲だったという点も驚き。オスカルといえばアンドレにフェルゼンを筆頭に、自己犠牲の道を行く女性に与えられる男性はイケメンばかり。という見方は、決して捻くれた見方ではないと思う。

 

アンシャンレジーム♪と高らかに歌い上げるミュージカルアニメとは夢にも思わなかったけれど、それはそれでとっても面白かった。

 

少女マンガというジャンルを切り開いていった作家・池田理代子の初期の代表作は、今見ても大輪の薔薇のように絢爛豪華。ジトジトやジメジメが吹き飛んでいく。


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今年は7月だというのに雨や曇り空が多く、すっきりしなくて湿度高め。すっきり晴れ上がった青空のもとでなくとも満開のラベンダーはきれいだった。例年と変わらない景色にホッとした。街を歩けばジャズライブの音楽が賑やかで、7月も半ばとなれば、もうすっかり夏休み。

アートの価値は、見た人体験した人が見つけるもの

最近見たアート的な催しといえば、『ポケモン×工芸展 美とわざの大発見』と見立て作家田中達也氏の『MINIATURELIFE×KOBE AIRPORT』展。どちらも、かわいい面白いと写真を撮りまくった。


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現代アートってどんなもの?というライトな興味にちょうどいい入門書、『芸術の価値とは何か AIが奪いつくすからこそ、アートに”解”がある』*1を読んだ。

 

アートとは?現代アートとは?と考えると敷居が高いけれど、この本を読んだらグッと敷居が低くなった。わかりやすかったから。

 

入門書あるいは教科書的でもあったから、著名な作家の名前、村上隆や奈良美智などの名前も散りばめつつ、とっつきにくいと思われがちな現代アートの世界を語りつくしつつわかりやすいものに変えていた。

 

そもそも現代アートって、いつの時代のものから言うの?という考えたこともないベーシックな疑問も氷解。わからないものはとっつきにくいけれど、わかるとそうでもなくなる。

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難解だったり、時には綺麗でさえなかったり。話題性が先行してそれがアートなの?と思う作品も、作品単体ではなく流れや背景がわかってカテゴライズされると途端にわかりやすくなる不思議。

 

傾向と対策のようなもので、傾向がわかって初見ではわけがわからないものも、落としどころが見つかって素材やテーマでカテゴライズできるとわかる。あるいは、わかったつもりになれる。

 

現代アートの大きな特色として”社会と向き合う”という軸があるんだとわかっただけで、理解が一気に深まりだからメッセージ性の強い作品が多いんだとすっきりした。

 

いわゆる現代アートと、美術館で鑑賞するマスターピースで大きく異なるのはメッセージ性。歴史上の人物を描いた肖像画や静物画からはメッセージ性は感じられないあるいは感じにくい。だからメッセージ性を考慮することなく鑑賞してる。

 

ところが現代アートでは濃淡はありつつもメッセージ性が明らかなものが多く、だから絵画的作品であっても現代アートの以前と以後では不連続なんだと思うようになった。

 

例えばモンドリアンにポロックといった作品は、初見だと斬新で革命的だったに違いないけれど、今ではモンドリアン的でポロック的。既に評価が定まったあとだから、見る方も安心して鑑賞できる。

 

それもアートなの?と思うような作品、物議を醸すような作品に高値が付くのも現代アートの世界で、そうした側面にもちゃんと説明がついていた。わからないものによくわからないながら高値が付くのなら情報の非対称性があるはずで、わかる人が少数だとマーケットは成熟しない。

 

この種の入門書をきっかけにわからないものではないという人が増えると、情報の非対称性も少なくなって、アートマーケットの動きもわかりやすくなるのかも。先行者メリットのようなもので、早くからその世界に飛び込んでいるとマーケットを主導する側により近くなるものだから、こうした初心者に優しい本だって書ける。

 

著者は金沢にも居たそうで(金沢21世紀美術館館長も歴任)、工芸にも言及しているけれど、ポケモンとコラボしたポケモン×工芸展は大盛況だった。


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日本にはそもそも動物文様という伝統があり、ポケモンはその亜種だと思えば様々な工芸品のモチーフになっていても違和感はなし。現代だったらこういう作品があってもいいよねで、テーマとしては斬新だけど面白い・カワイイで単純に楽しめた。

 

旅行中にたまたま見つけた『MINIATURELIFE×KOBE AIRPORT』も、何の予備知識もなく見て楽しめた、面白くてカワイイ立体造形作品だった。とはいえ薄っすらと諧謔とでも呼びたくなるようなメッセージ性も立ち上がってくる、面白かわいいだけじゃない作品群だった。見立ても、日本では伝統的なもの。


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どちらのアート展も、従来のアート作品からすれば斬新だけど、鑑賞者は面白い・かわいいと楽しみながら鑑賞してる。

 

モンドリアンにポロック、あるいは自然を素材としたライトニング・フィールドのようなものも、評価は後からついてくるけれど、最初に見た人たちはただ面白い楽しいとアート体験を楽しんだに違いない。

 

時間の経過とともに、面白い楽しいという当初の経験から受けた感動のようなものは薄れていくけれど、変わりにもっともらしい美術史的な意味合いが付加されて、評価が定まっていく。その繰り返しがアートの進化なんだと読み進めながら納得した。

 

肯定だけでなく否定の声も出る、時に物議を醸すようなアート作品に高値が付くのも、愚行権のようなものに大金を投じる数寄物がいるからで、その場合も確実に誰かを喜ばしている。面白い・楽しい・かわいいといった、”快い”ものに対価がつくのがアートでもあるのかも。かもかも。

 

わかったが増えると、最初は遠いものだった世界も身近なものになる。かわいい・面白いと撮った写真は第一アクションでもっとも身近なコレクションツールで対価を得る手段の第一歩なのが現代、なんだとも思った。

*1:kindle版2026年4月9日版

松尾シェフの料理帖、読んだ

作りたいレシピがあったら、買い。以前はレシピ本を購入するかどうかのポイントは、作りたいかどうかだった。

 

最近は、ちょっと違う。作ることはなくても眺めているだけでいい。そういう料理があれば、購入のきっかけになる。

 

シェ松尾という名前は、デパートでも売ってる洋菓子のお店として記憶してた。そもそも松濤にお店のある一軒家レストランだったことも知らず、youtubeの動画きっかけで『料理をほめられたことがない人に捧げる 松尾シェフのレシピ帖』*1を買ってみた。

 

フレンチレストランのオーナーシェフだった人が、料理初心者や初級者にどのようなアドバイスをするのか。という興味80%で読んでみた。youtubeの動画でも丁寧かつ上品な語り口で、もしも料理教室があれば、こんな口調でやっていたんだろうと思わせる上品さ。

 

動画でも初心者向けにわかりやすく、時にはお店と違う家庭向けに大胆に解説されているけれど、本の内容もわかりやすくかつポイントが押さえやすい。上から目線ではなくフラットだから、アドバイスも受け入れやすい。

 

新しい(といっても2023年刊行だけど)料理本は、写真もきれいでただ眺めているだけで楽しい。

 

フレンチとなると、面倒というよりカロリーが気になってなかなか作る気になれないけれど、掲載されているレシピはどれも作りやすそう。ついでにそうハイカロリーではない料理が並んでる。

 

ハレの日向けに、ちょっといつもとは違うものにしたい時にもいいけれど、いつもの日にも加えたいお料理が並んでいて美味しそう。

 

料理動画はながら視聴に最適で、つい長く見てしまうけれど、本の方も気楽にリラックスしたい時に眺めるのにちょうどいい内容になっている。

 

むちゃくちゃ簡単で手抜きがいっぱいでも、むちゃくちゃ面倒で工程数もとびっきり多いわけでもない。ちょうど真ん中、それなりに工程数は必要で、料理した気分が味わえるレシピが集ってる。

 

リラックスしたい時に手に取る本は、眺めていてもキレイだけど学びがあってという内容だと、お得で嬉しい。学びは彩り。やっぱり料理において彩りは、大切な要素だと実感する。


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大通公園では花フェスタ2026札幌が開催中で、花壇以外も彩りいっぱいで目の保養になる。

*1:2023年12月発行kindle版

江戸と東京、二生を生き残った証言がフィクションの中に生きる

江戸と東京、社会が変われば組織も変わる。では、組織人は?

 

江戸幕府の組織である町奉行所が、東京府に組み込まれていく。その過程はどんなものだったのか。という興味から『江戸町奉行所 与力・同心の世界』を読んだ。

 

町奉行、与力に同心も時代劇や時代小説ではお馴染みのもので、イメージが出来上がっている。というよりイメージが先行している。イメージ先行の時代劇ではお馴染みの役職・組織を主人公に、本当のところはどうだったのかと、組織をつぶさに観察していた全5章から成る読み物。

 

江戸時代といえば260年も安定して続いた政体で、安定した体制のもとで文化も花開いた時代。とはいえ江戸は、世界史を見回せば新興の都市という指摘がまず面白かった。新しい都市は、古い都市とは立地も何もかもが違う。だからこそ組織も刷新できたはずで、江戸という新興都市に生まれた与力・同心という制度や治安組織は、上から下までこと細かに”しきたり”が決められている。

 

上から下まできっちり”しきたり”が行き渡ってる組織だから、組織が強かったという見方もできる。とはいえ窮屈そうで、フィクションの中に現れる、時には探偵役の与力・同心像より一見自由がないように見える。

 

上から下まできっちり”しきたり”が行き届いた組織には自由がない代わりに、組織から離れた場所では文化的交流が活発で、中には玄人はだしの人物も居て江戸文化の興隆に貢献していた。という指摘が、面白ポイントその2。

 

自由に乏しい組織が、闊達な江戸文化の興隆にひと役買っていたという構図は、公私の使い分けによって不自由さを逃れていたという意味でとても合理的。

 

そもそも幕末から明治への移行に興味があって手に取った本だったので、最も興味深かったのは第5章の『与力・同心の幕末維新ー江戸町奉行所の終焉』のパート。

 

やっぱり子飼いで新しい時代を始めるんだねと思う、維新後の新しい組織では、古い時代の生き残りは徐々に淘汰されていく様がもの哀しい。

 

もの哀しいけれど、最後まで与力・同心だった者たちは昭和のラジオ時代まで生き残った者もいて(寿命を考えたとき不思議でも何でもなく、江戸と東京の二生を生きている)、その証言は時代を越えて残された。

 

江戸時代は、江戸という新しい土地で新しい組織を始めたけれど、東京は江戸という隅々まで旧体制が行き届き、文化さえ盛んだった土地に新しい組織を作らねばならなかった。当然名前は変わっても良いものは引き継がれたはずで、名前を変えつつ新しい社会に応じた組織に作り変えていったはず。

 

その過程で零れ落ちる江戸のエッセンスのようなものは、新しい社会が安定に向かい、旧い時代を懐かしむ頃になるとフィクションの中で蘇るようになる。江戸の思い出や風聞は、時代小説を筆頭にフィクションの中に引き継がれ、後には映像作品となって現代まで続いている。という有り様は、新しい時代を迎える時の有り様として、納得感と既視感がある。

 

懐かしく思い出して振り返る。そういう思いを旧い時代に寄せる人が少数ではなかったから、語る人と語りを受け取る人双方に思い出が引き継がれ、イメージ先行の町奉行像が出来上がって引き継がれていったのかも。

 

裁くあるいは取り締まる側ではなく、裁かれる側が語って引き継いでいたら、実像は実像として後世に伝わっていたのかもしれないとも思った。


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今日は、ようやくこの時期らしくさわやかに晴れ渡って青空。昨日は雨のち晴れで、雨の中で踊る人たちもいた、YOSAKOI。YOSAKOIは、ヒラヒラと旗が翻って衣装もヒラヒラしていた方がそれっぽい。それっぽくないものもそれはそれで面白い。集団で踊る演舞という形式に、衣装や旗。どう考えても文化祭や体育祭の延長線上で、この時期の札幌中心部は、文化祭や体育祭のバックステージみたいで面白い。


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はじめまして、マンダロリアンとグローグー

ディズニープラスのキラーコンテンツ(らしい)、『スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー』見てきた。

 

本編となる実写ドラマはすでにシーズン3に突入しているとはいえ、見るのは初めてなマンダロリアン。全9作からなるスター・ウォーズ本編との連続性を感じるのは世界観のみで、マンダロリアンもグローグーも初めて見るキャラクター。

 

とはいえグローグーは、どこからどう見てもヨーダの一族で、グローグーの存在が、新しいスター・ウォーズと古くからのスター・ウォーズを繋いでる。

 

なぜマンダロリアンとグローグーは行動を共にしているのか。マンダロリアンとは何者か。といったシリーズの根幹に関わることは、本編のドラマシリーズでどうぞ。

 

ということでもあるのか映画では詳らかにされず、別にそれがフラストレーションになることもない。マンダロリアンとグローグーは、時に死にそうな目に遭いながらもこんな風に旅をしてるんだと、旅のひとこまを鑑賞した。

 

マンダロリアンの肩の上がグローグーの定位置で、一匹狼で群れないマンダロリアンがまだ幼いグローグーを連れ回せるのもグローグーはフォースの力に恵まれているから。

 

幼い身体には不似合いなほど強大なフォースの力に恵まれたグローグーと共に旅するのも、腕白でもいいたくましく育て路線なのかも知れず、遭遇する敵も二本足のヒューマンタイプより、想像上の生き物が具現化したようなクリーチャータイプばっかり。

 

メカメカしい機械やロボットと人間、そして知性やフォースのような能力に恵まれた非ヒューマンタイプの生き物で構成されるスター・ウォーズの世界で、今回の映画では人間が活躍する割合はほんのちょっとだったのが、印象的なところ。

 

二度はごめんと思うような、ヌルヌルして気持ち悪いクリーチャー大暴れ。

 

帝国VS共和国という、勧善懲悪でわかりやすい物語だった旧スター・ウォーズと違い、マンダロリアンシリーズのテーマは一見わかりにくい。わかりにくいけれど、幼くしてすでに強大なフォースの使い手の片鱗を見せるグローグーが健やかに育つ、グローグーを健やかに育てるがひとつの大きなテーマなんじゃないかと思った。

 

帝国VS共和国との戦いのように、二項対立鮮明な状況では、正しい振る舞いは身に付けやすい。だけど、正しい振る舞いや身の処し方のために戦いに身を投じるならナンセンス。

 

旅をするキャラクターは多いけれど、ただマンダロリアンと旅を続けようとするだけでも、戦場ではない場所にあってさえ敵や障害物に遭遇する。

 

旅という、生きるためによりハードな道を行きながら、それでも適切な身の処し方を学んで生存確率を上げていく。そういう道行きに見えた。

 

ジャバ・ザ・ハットの息子という悪名を背負ったロッタとグローグーが仲良くたわむれるほっこりシーンがあったけれど、良くも悪くも背負わされるものが重い者同士は意気投合しやすいを現したシーンにも思えて、グローグーの無邪気さと相まっていいね!を百万回したい場面だった。

 

スター・ウォーズという、映画史に残る名作を背負って登場した、新しいキャラクターたち。しかも、スター・ウォーズが熱狂的に支持された時代と違って、現代では可処分時間の奪い合いはより激しい。

 

グローグーがまだ幼く、仕草は愛らしく、庇護欲を煽る仕様になっているのはきっとわざとだと思うけれど、それでもグローグーは可愛い。グローグーのようなキャラクターを、可愛いと思わせるのも技術。

 

アニメで表現しようとすれば、もっと簡単そうというシーンばっかりで、だけどスター・ウォーズはやっぱり実写じゃないと、スター・ウォーズらしくない。ついでに、スペースオペラにせずホニャララにした方がもっと簡単と、実写ドラマにせずアニメにした方がもっと簡単は、きっと相似形。

 

観客ニアリーイコール、ファンやユーザーとの関係性が、コンテンツの行方を決める。現在のコンテンツは多少なりともそういう性質を持っているものだけど、ファンやユーザーは、時に信じられない行為に及ぶ。

 

そういう環境で、小さな子供をスター・ウォーズシリーズの主役級に据えるのはすでに途方もない挑戦で冒険で、まっすぐな愛情が注がれないと、マスターヨーダのように愛されて尊敬される存在には化けない。

 

文化の衝突以前に、生きるか死ぬかという死線をクリアしながら、健全性の純度が高くなって磨かれていく。愛らしい可愛らしいと愛情を受け、愛されて尊敬される存在となるのか、それとも新たな道を行くのか。あるいは、失望や絶望を味わってダース・ベイダーのようになるのかは、グローグーを見守る人すべてに関わってくるのかも。

 

ドラマシリーズ本編より面白かったら、映画で満足してしまう。ドラマシリーズ本編に興味をもってもらう、あるいはスター・ウォーズという世界に興味を持ってもらう導線として、とてもよくできていたと思う。

 

マンダロリアンから真っすぐな愛情を注がれたグローグーは、マンダロリアンの危機には、勇敢かつ勇ましく駆け付け、可愛いだけじゃない面を見せる。これからも見たいのは、ただ可愛いだけじゃない姿。

 

雪まつりの会場で見なかったら、マンダロリアンのこともグローグーのことも知らないままだった。潜在的ファン層に訴えるタッチポイントは、これからますます重要になっていくんだろう。


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