代わりが見つかったとき、かけがえのないものを失った悲しみも薄れるし癒える。だけど、見つからなかったら悲しみは癒えず、欠落はそのまんま。
普通の人がやるようなこともできるけど、普通の人ではできないことや普通の人がやらないことの方がずっと得意。という少年が主人公の映画『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』では、少年は最大の理解者である父を失ってしまう。
失ってしまうというより、奪われてしまったという方がより正しいかもしれない。9.11で崩れ落ちたワールドトレードセンタービルの中に少年の父も居て、彼のように突然家族を奪われた人は他にも大勢いたけれど、彼の個性を理解して育んでくれる良き庇護者を失った彼の哀しみは、他の人達と一緒のようでいて同じじゃない。
かけがえのない物を失った欠落を埋めるように、少年は手元に残された鍵にピッタリ合う鍵穴を探し、NYを探査して人に会いに行く。
悲しみの癒し方に、たったひとつの正解なんてない。
だから、事情を知らない他者から見たとき少年の行動は時に変。だけど少年にとっては正解だから、映画は彼の父親だったらきっとその行動を許すように、彼のしたいように進んでいく。
WWⅡに湾岸戦争に9.11。戦争や争いは、時にエンターテインメントの格好の素材でテーマ。戦争に限らず悲劇を素材に生まれてくるエンターテインメント作品は数多くあるけれど、長持ちする作品が少ないのは悲しみはいつかは癒えるから。
大いなる怒りや悲しみを生々しく反映した作品はエキセントリックで、エキセントリックな怒りや悲しみに同調できるのは、同じく大きな怒りや悲しみを抱えている間だけ。
怒りも悲しみも癒えたとき、大いなる怒りや悲しみをエネルギーにして育まれた作品もその使命を終える。だから、癒えない悲しみが作品を長持ちさせるとも言える。
そして、争いから生まれた怒りや悲しみを癒すのに、争いはいらない。
という大いなる怒りや悲しみをエネルギーに育まれた作品は、怒りに怒りをぶつけるよりずっと巨大で強大で、悲劇に対する補償や代償に著しい偏りがあったときほど大きく発動するんだろう。例えば加害側が、被害側より大きな利得を得ていた場合などに。
見る人がみればきっと懐かしいと思うNYの風景は、歳月を重ねていくごとに変わっていく。変わらないのは映画の中だけ。
みんなと同じようにもできるけど、みんなとは違うこともできてそっちの方がずっと得意という少年は、父という理解者を失った。その代わり、”そこにそんなものがあるなんてステキね”と言ってもらえるようなものを手に入れた。
”そこにそんなものがあるなんてステキね”という称賛の声は理解への第一歩。そんなものがあちこちにあったらステキねで、あちこちにコピーが増えたら理解者が増えたということで、大人になった少年はそのとき父以上の理解者に恵まれる。
大いなる悲劇から生まれてきたけれど、怒りに怒りをぶつけてエネルギーに変える。そういうやり方にはもううんざりなんだ。
という感情の落としどころにピッタリはまると、年越しや新年の時に”今年は(今年も)よい年になりますように”と願って賽銭箱にチャリンチャリンとお賽銭を入れるように課金する。そういう作品が生まれてくるのかも。かもかも。これは、Amazon primeで見た人の感想です。
大きく作ったり育てるのが難しいものは、まずその大きさで驚いてもらえるし褒めてもらえる。例えばジャックオーランタンにするようなカボチャ。非戦や反戦あるいは人類愛といった大きなテーマに飛びつくのは、何かを作れるようになったあとの大いなるチャレンジに似てる。
そしてかぼちゃの馬車に挑戦するのは、思いっきり泣きたいときにちょうどいい、特定シーンの音楽が超お気に入り、特定シーンのこのキャラこの見せ場が超お気に入り。という感情の落としどころにピッタリはまる実用的な作品が作れるようになってから。ということでもあるのかもね。
天高く馬肥ゆる秋っぽい空模様になってきたけれど、北海道の秋は短くあっという間。