クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

観光客に優しい場所で観光する

ホワイトイルミネーションが始まったのに雪はなく、雪が降らない師走は師走気分も薄くて気持ちはまだ晩秋。

 

雪が降らないと秋が長い。秋が長くなると紅葉も長く楽しめる。今年は例年になく、北海道でも紅葉を楽しんだ人が多かったんじゃないだろうか。

 

マルセイバターサンドがきっと一番有名だけど、おやつとしてよく買うのは万作におふたりでにマルセイキャラメルあたり。

 

六花亭といえば北海道を代表するお菓子メーカー。帯広(より細かく言うと中札内村)にある観光施設”六花の森”には、ずっーと行きたいと思っていた。なので、紅葉のというより落葉の季節に行ってきた。


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国立公園に比べると、第一印象は思ったよりこじんまり。

 

ただしそれは、安心して緑いっぱいの景色のなかを歩ける範囲のことで、六花亭のカフェや工場あるいは美術館を含めた六花の森そのものはやっぱりべらぼうに広い。そしてただ広いだけでなく、広大な敷地内はどこもきれいに手入れされている。

 

あいにくの天気でも無問題なのは、美術館が点在しているから。悪天候でも観光できるよう設計されているくらい、観光客ウェルカム。


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(彫刻作品もいっぱいで、アートいっぱい)

六花亭の包装紙のように、色とりどりの花が咲くさまを楽しめるのは春や夏。だけど、紅葉あるいは落葉した森や林もまたいいもので、国立公園内の森や林を気ままにぶらぶら歩くのは時に危険と隣り合わせなことを思った時。観光客が安全に観光気分を満喫できる森はとっても偉大。

 

しかもその偉大な森が、もともとはお菓子、きっと今でも一番人気のバターサンドから始まったと思うとただ感動しかなかった。

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お土産にちょうどいいバターサンドのお値段、売れ筋は千円から1500円くらい?そのくらいだったら、自分へのご褒美としても絶妙に買いやすい。

 

お菓子は余裕の産物。とはいってもほんのちょっとの余裕で手が届く。ほんのちょっとの余裕が積み重なると人工の森が出来上がり、どこかで失われた自然の森の代わりに人工の森に落ちたお金がまたどこか別の場所で、自然の回復や文化の普及や振興に使われる。

 

机上の空論でも妄想でもなくそのシステムあるいはサイクルが、目の前に現実として現れている。そういう意味でも感動と感心しかなかった。

 

北海道に住んでいると、カフェに図書館に音楽などの文化ホール、六花亭の文化振興や普及にかける(かけた)情熱けた外れだとよく思う。その原資がそもそもはお菓子で、とっても贅沢ではないけれど”豊かさ”につながっている。

 

マーガリンではなくバターたっぷりで、クッキー生地もソフト。生ケーキほどではないけれど賞味期限はそう長くなく日持ちはしない。

 

毎日は無理でも時々ならOK。少数だけでなく万人に通じる。

 

その種の余裕が積み重なると、次の世代にも”豊かなもの”が残せて、豊かな森が出来上がる。

 

六花の森がある中札内村のほど近く、岩内仙峡という景勝地にも足を伸ばしてみた。今年は寒暖差が激しかったおかげもあってか、”仙峡”という名称がちっとも大げさでないくらい、紅葉が見事だった。


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十勝八十八か所のひとつであったり、岩内国民ほにゃらら(公園?)の文字が見えたり。六花の森が超有名観光地で管理が行き届いているのに比べると、野趣たっぷり。

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野趣たっぷりだから、現地に明るい人ほどより楽しめそうな場所。観光客はどこまで踏み込んでいいかよくわからないから、人目のある場所をグールグル。落ち葉を踏みしめながら、流れる水の音を聞きながら、紅葉のなかを歩くのはただ楽しい。

 

ただ楽しいけれど、自然のなかを歩くだけでもレジャーになって楽しいのは、自然の方がより貴重だと思っているから。

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自然、あるいは緑いっぱいが貴重だと思っていると、わざわざあるいは遠路はるばる足を伸ばす。はるばる出掛けてはみるけれど、自然が勝り過ぎるところへは行かないし行きたくない。という向きには、ハイシーズンを外していても人気の観光ルートで超有名観光地を含む北海道ガーデン街道は、それぞれに見どころがあった。

 


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(ここは真鍋庭園。見応えのある樹木がいっぱい)

そもそも北海道では秋が短い。その短い秋のいつ頃を狙って行けばいいのか、悩ましいところ。大雪山では9月もなかばを過ぎると紅葉が始まるけれど、六花の森が営業終了となる間際、10月の終わり頃でも紅葉が楽しめる場所は、探せば他にもいろいろあるはず。

ありし日の

かぼちゃのポタージュを作る時は、いつも皮まで使う。

 

色味は悪くなるけれど、煮物だったら皮ごと食べるから。勤労感謝の日に作るかぼちゃのポタージュは皮無しで。いつもなら使う部分を使わないとごちそうっぽく、雑味がないからいつもより美味しく感じた。

 

かぼちゃ、玉ねぎ、バターにブイヨンキューブ、牛乳と塩こしょう。ポタージュに使う材料はそれだけ。かぼちゃ以外の材料はすべて共通にして、かぼちゃの品種やブランドだけを変えて作れば、ブランドや品種の良し悪しがよくわかる。

 

かぼちゃの出番が最も多くなるシーズンに、一番美味しいかぼちゃを用意するなら良心的。出番が多くなるからと在庫一掃の機会にするなら良心少なめか非良心的。

 

心の中の閻魔帳はそういう機会に着々と積み重ねられ、年単位で積み重ねられた良し悪しの天秤となる。良心的な商売人だったかどうかは、やる前からわかっていることなんだろう。

 

ふた昔かそれよりもう少し前。京都の寺町二条には、”せいほう”というケーキと紅茶の店があった。

 

どのケーキも美味しかったけれど、今でももう一度食べたいと思うのはりんごやチェリーなどフルーツを使ったもの。美味しいチェリーパイが比較的色んなお店に並び出した頃でもあって、その前か後ではチェリーパイが好きな主人公が活躍するアメリカのテレビドラマが人気だった。

 

国内(=制作国)だけでなく、海外でも大人気。その種のエンタメ作品の凄さ、あるいは偉大さは案外そんなところにあって経済波及効果が抜群で、抜群の経済波及効果を使って売り出すものが決まっているとヒットするのも確実となって、ホームランは無理でも出塁は確実。ヒット作の蛇口が細いと、その種の予測も比較的簡単だったのかも。

 

”せいほう”の近くには”トラモント”というイタリアン、というよりパスタのお店があった。そっちは今でもあるはず。料理によってはかなり塩気がきつく、塩気はきついけれど美味しかった。本場のイタリアンはそんなものというよりは、平均的に美味しいイタリアンのお店が増えたら塩気のきつい味は個性となって、記憶に残りやすい味となる。

 

”せいほう”にはある時から軽井沢の先生こと、内田康夫が好きだというチョコレートケーキ(ドライフルーツ入り)が並ぶようになった。本当に内田康夫がその店やケーキが贔屓だったのかどうかはわからないけれど、お気に入りのケーキと一緒に売られていた内田康夫という名前は、ケーキを思い出すたびにセットでついてくる。

 

浅見光彦シリーズが好きだけれど、好きというだけでその内容はビタいち頭の中には入っていない。

 

多分女性人気がより高い、浅見光彦というキャラクターはある種の女性の願望を体現している。良家のおぼっちゃま≒王子様で、近親者は国家権力者。小さなコミュニティでは暴くことも正すこともできない不正や腐敗を正す存在だから、好かれて好まれる。

 

それはつまり、国家権力という強権でもないと正すことができない、不正や腐敗を不快感とともに身近に感じている女性たちの多さにもつながってる。あるいはいたんだろう。

 

見た目も家柄も性格も。いいに越したことはないけれど、見た目がいいだけでも家柄がいいだけでも性格がいいだけでもダメで浅見光彦じゃない。不正や腐敗を正す国家権力へのショートカットという機能が付いてないと、浅見光彦タイプの王子様にはなれない。

 

正すことのできない王子様≒おぼっちゃまは、世知に長けた女性にとってはカモでしかない。

 

その繰り返しが相互不信の歴史で、現実には浅見光彦のようなキャラは滅多に存在しないとわかっている。

 

絶対的な信頼を勝ち得ている人、場合によっては人々は、相互不信の歴史から不信を取り除いた人や人々で、それなり以上のことをやってきたという歴史の積み重ねは、属人。人に属すものだから、歴史を積み重ねないと代わりにはなれないし、ひょっこり代わりが現れるものでもなく、ましてや人でないもの(=組織)では代われない。

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勤労感謝の日のワンプレート。カマンベールのチーズフォンデュにタラモサラダ風ポテサラ、手作りソーセージにかぼちゃのポタージュスープを添えて。ポタージュはいつもよりきれいな黄色に仕上がった。ソーセージは手作りしたものより市販の粗挽きソーセージの方が断然美味しい。断然美味しいけれど、買えばいいものをわざわざ手作りすると、よりホリデーっぽい。

富士は日本一の山

田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ

 

十人十色の10倍だけあって、百人一首は叙情でも叙景でも多彩。技巧を凝らしたものもあれば、素朴なものもあり、巧拙という点でも多彩。

 

春夏秋冬それぞれの季節に寄せて、嬉しい楽しいといったポジティブな感情だけでなく、寂しいや例えば花の盛りが過ぎたことを残念に思うようなネガティブな感情も扱ってる。

 

大別すれば歌に景色や季節が織り込まれているものと織り込まれていないものがあり、自由気ままな外出は、和歌を作るような階級では特別な機会だった時代を反映してるようにも思える。『ちはやふる』をじっくり読み込めば、そのあたりの背景にはもっと詳しく踏み込んでるかもだけど、精読してないので雰囲気でそう感じただけ。

 

外に出ないから季節も自然も景色もなく、あるのは自身の内部。ただ己の内部から生まれたと思われるような歌は、より技巧に勝ってるように思えるのもきっと気のせいじゃない。自省や内省の時間が長く、言ってみればたっぷりの練習時間があれば技術は向上する。

 

景色や風景を織り込んだ歌は、万葉の昔から四季があった日本の伝統っぽく、万葉からの連続性を感じる。

 

景色の中に身を置いて自身の感情を歌った歌が多いなか、ただシンプルに富士山に雪が降る情景を歌った歌は、景色だけという点でだからちょっと変わってる。

 

そもそもは万葉集から来た(らしい)歌だから、素朴でもちっともおかしくない。おかしくないけれど、冠雪した富士山、あるいは富士山に雪が降る景色の美しさや素晴らしさを伝えるのに、言葉はいらない。

 

絶景を前にキレイねステキねと感想を連ねるのは鑑賞者で、素晴らしさや美しさを伝える発信者は、ただ美しさや素晴らしさを伝えることに専念さえすればいい。

 

カメラもスマホもなかった時代。目の前の素晴らしい景色をどう伝えようかと考えた時に景色だけを描写して、素晴らしい景色を前にした自身の感情は封印した。そのセンス、あるいは審美眼は、カメラが普及する時代の感性を恐ろしいほどに先取りしてる。

 

今では世界的観光地になった富士山を見て、びゅーてほー・わんだほーと世界中の人が思い思いに写真を撮っているに違いないけれど、びゅーてほー・わんだほーと千や万の言葉で伝える方が難しい。

 

富士山ってホントにキレイなの?と問われたら、ただ絶景だと思う富士山の写真を見せればいい。

 

Q:キレイなの? A:ほら、キレイじゃん。

 

自身の感情は脇に置いて、ただとある季節とある場所から見える富士山の景色だけを切り取って詠んだ歌は、シチュエーションとしてはそういう感じに思えて、一見すると技巧なんて何もないようで、“美しさの見せ方”あるいは“素晴らしさの表現”としてはとっても凝っている。

 

とっても凝ったものだから、凝った表現を見慣れた人(←百人一首の選者)もわざわざ選んだのかも。

 

口惜しいや恨み言っぽいネガティブな感情を扱った歌も百首のなかには選ばれているけれど、怒りといった感情、プロテストソングは見当たらないところも日本的。

 

百人一首的なものを現代で作ろうと思ったら、和歌ではなくJポップでもできそうだと思ったけど。

 

恋愛でも恋愛以外でも。自己の感情を扱ったものは多くても、季節や風景を織り込んだものは少なくて、とある季節とある風景を織り込んだものとなるともっと少なくなるはず。

 

卒業シーズンを別にすれば、今を生きる人にも通じる表現で四季を揃えることもきっと今となっては難しく、だから百人一首Jポップあるいは音楽バージョンは作るのが難しいのかも。かもかも。

 

言葉のレトリックは、一切なし。ただ山に雪が降っている。そのさまをありのままに描写するだけで美しさや素晴らしさが曲解されることなく誰にでも伝わるのなら、そもそもの素材が美しくて素晴らしい。

 

日本一の山を表現するのに、足し算ではなく引き算、余計なものは削ぎ落とす方を選んだ。その手法もとっても日本的。

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これは春先、雪で真っ白になっている羊蹄山。別名蝦夷富士。夏に見る羊蹄山とはまた違った景色。見慣れたはずの景色も、季節が変わるだけで見る印象が変わって新鮮。

写真には写らない

この見事な紅葉にまたはなし。今年の猛暑も二度とごめん。

 

寒暖差が激しいと、紅葉はより鮮やか。

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夏が過ぎても例年よりずっと暖く、秋が長い。そう思っていたらやっぱり突然冬がやってきて、いつものように寒くなった。札幌は今日が初雪、例年より十日は遅いんだとか。

 

記録を次々に塗り替えた、2023年のような猛暑はきっと当分はない。だから、とびきり鮮やかできれいな今年のような紅葉が長く楽しめるのも当分はなく、これっきりだと思うから木々の赤も黄色も一層鮮やかなのかも。


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写真より実物の方が、ずっときれい。

 

そう思う時が買い替えどきで、きれいやカワイイで思わずシャッターを押したくなる機会が増えるとカメラやその他の買い替えが進み、そうでもないと買い控え。

 

スマホや携帯。今のように誰もがカメラマンだと、買い替えを推進したかったら最早環境、景観に手を入れる方がユーザー個々に働きかけるより手っ取り早いのかも。

 

そして、きれいな景色で美しい景観だけど、その地で生活する人の気持ちや心はバラバラな場合と、きれいでもなければ美しくもない景色や景観を共有しているけれど、その地で生活する人の気持ちや心はほぼひとつで団結しているケースと。

 

どちらかが好みなのかには、美しい景色や景観がどうやって生まれてきたのか。その過程をすっかり知っているかどうか。あるいはどのくらい関わっていたかどうかにも左右され、美しい景色や景観が誰にでも好まれ肯定されるようになるには相応の時間が必要なんだろう。

 

今はとってもきれいになっているけれど、昔々あそこではひどいこと(あるいは恐ろしいこと)があったんだよ。という記憶が生々しいうちは、事後がどれほどきれいになろうと手放しで肯定はできない。

 

肯定はできないけれどきれいになった。その事実を曲げるほど否定的でもない。そういう時は態度保留で遠くからそっと見るくらいがちょうどいい、にもなるのかも。

 

きれいにしようと頑張った結果きれいになっても、きれいになったからとわざわざ汚しにくるような輩が現れる。それも次々と。

 

そういう場所が都会で都市で、10年前より今現在。20年前より、50年前より今現在の方がずっときれいで気持ちよく過ごせる場所になっているなら、それが結果。

 

きれいにする努力を放棄した場所よりきれいなのも当然で、画一的なことしかできないロボットやマシンでは代われない、その種の労働力が豊富だったからに尽きるんだと思う。

鮭、鮭、鮭

たまにしか食べないジャンクなものや、栄養バランスが著しく悪そうでカロリーが高そうなものは、朝に食べるに限る。


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(朝からケーキ、朝からハロウィンプレート)

そんな日はいつもより運動量を増やして、カロリー消費に勤しめばいいだけだから。

 

しみじみ美味しい、鮭と昆布の煮物。とある日の朝ごはん和定食バージョン。

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釧路には和商市場という市場が釧路駅近くにあって、前回釧路に旅行に行った時にはそこで鮭やその他海産物を買ってきた。

 

今年は筋子の新物が出回るのも、例年より早かったような気がする。新物だから、筋子の薄皮も簡単にはがれ、素直に考えれば薄皮がはがれやすいものほどきっと新鮮。

 

一尾丸ごと、(といってもできるだけ小さいものを選んだけど)買ってみようと思ったのも旅先だったから。二条市場に場外。観光客が観光客らしいふるまいをしても自然な場所だから、観光客の足はやっぱりそういう方面に向かうんだろう。

 

スーパーには地域性が反映されるから、この地方やこの土地ではどんなものが食べられているんだろうとご当地スーパーでご当地ものを眺めるのは楽しい。だけど車社会の地方では、ご当地スーパーは車がないとそもそもたどり着けない。

 

煮てもよし。軽く塩を振って焼いてもよし。和風に使っても洋風に使っても、何なら中華やエスニックにだって使える応用範囲の広い鮭。筋子のしょうゆ漬けを自分で作ってみようと思うのも素材が手に入るからで、食材として北海道で鮭は定番中の定番。

 

筋子の薄皮取りはちょっと面倒だけど、お湯の中で作業するとやりやすい。

 

筋子の薄皮取りに限らず温泉のようにあたたかいお湯が使えるから楽になった(あるいは楽になる)作業はきっと他にもいろいろあって、温泉が出るから冬が厳しくても生き延びられた。という経緯はあってもおかしくない。

 

北海道に来た最初の年は、雪も多くて寒かった。

 

暖房付きの現代の建物でさえ時には寒いのに、昔々、暖房もなければ頑丈な建物さえない。そういう状況で、どうやって厳しい寒さを乗り切ったんだろうと不思議に思うけれど、温泉が湧いて、屋内でも火を使って暖を取ることができれば、案外どうにかなったのかもしれない。何しろ暖炉の火は暖かいから。

 

暖を取るために火を使うことが難しくなると、(例えば建物が建て込んでくる、燃料の薪が手に入らない、などなど)より冬が厳しくない南へと向かい、環境の変化に耐えられず、同じように移動する人が増えると民族大移動となって、突然それまで見たこともない集団が現れた昔があったのかもしれない。

 

経済的な食べ物、例えば北海道の鮭。経済的なエネルギー源、例えば温泉や間伐材から取れる薪、ついでに森林の手入れ。といった経済的な環境が損なわれると不経済になり、環境由来の不経済を経済で救おうとした時のお値段はプライスレス、例えば天文学的数字でうん百兆円となるから不経済なことはやめましょうね。

 

というロジックは、すべてを金銭に換算してからでないと理解しない人にも理解できる、環境保護のわかりやすーいお話なのかも。かもかも。

いつも通りの大通公園、いつも通りじゃない大通公園

例年になくしぶとく長く続いた厳しい暑さだった。記録的な猛暑に見舞われた2023年の夏のことを、一体いつまで覚えていられるのか心許ない。

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いつまでも暑かったせいで、秋の訪れはゆっくり。青々としていた大通公園を彩る街路樹も、いつの間にか紅葉し始めていた。

 


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暑さのせいなのかところどころ茶色く変色していた樹々も、今は元気を取り戻したのか常緑樹は常緑樹らしく青々と、紅葉する樹々は赤や黄色に変わり始め、天気のいい日はとっても華やか。

 

季節の移り変わりとともに趣を変える、大通公園の景色はいつも通り。いつも通りの大通公園で、今年は例年にないイベント新そばフェスが開催されていた。

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新そばの季節になると、そばの産地では新そばの収穫に合わせた蕎麦打ちなどのイベントが行われました。という季節のたよりを耳にしたものだけど、季節のたよりの受け取り方が多様化した結果、新そばのシーズン到来を周知するにはイベントの方がわかりやすいんじゃない?というわけでもないだろうけど。

 

幌加内新得、その他。そばの産地ごとのそばやそばに合わせると美味しそうなフードやそば粉を使ったスイーツやフードまで揃ってた。

 

選択肢があり過ぎると、逆に選べない。

 

スープも麺もトッピングもバラエティがあり過ぎるラーメンはひとつにしぼり切れなくなるけれど、そばには今のところその心配はなし。

 

産地も北海道にしぼっているから数えられるほどで、数えられる程度の中から選べるというのは逆に楽。

 

オープンテラスでお蕎麦、そばを食べるというのはあんまりない。あんまりないから新鮮。

 

心配なのはお天気で、北海道だから秋は短く寒暖差は激しい。短い秋のなかでも天候に恵まれ、恵まれた天候のもとで美しく紅葉した自然を眺めつつ美食を楽しむというのは本来は本当に贅沢なことだったんだろう。

 

本来は贅沢なものだから、皆さんご一緒にが難しくなるとカジュアルダウンして、”皆さん”のいる場に本来は贅沢なものがやって来るのかも。

 

本来は限られた、有限なもの。よい素材に、素材のよさを生かすよい作り手。本来は有限なものを細く長く続けるためのコツや秘訣はカジュアルダウンで、例えば駅の立ち食い蕎麦的なポジションやフードコート。そういった場がリニューアルとともに姿を消す代わりに、イベントと化すのかも。かもかも。

 

美しい自然は年中無休でも、美味しいものが食べられる場所は年中無休だともたない。

 

名店といわれるお蕎麦屋さんは、調度といい器や使ってるものといい、本当に雰囲気がいい。たまに行くならそんなお店がいいけれど、質の担保にはカジュアルダウンした場もまた必要なんだろう。

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(この花はホトギス、夏椿の木も萩の花もあって、意外と和の花木も揃ってる大通公園

そう思いながら、観光に出かけた先の駅のコンビニで、限定販売ゆでるだけ、新そばを使った干しそばも買って、新そばの季節を堪能中。

遠くに行きたい

地名としてはポピュラーでも(少なくとも北海道内では)、自分にとってはポピュラーではない場所、釧路に行ってきた。

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(朝の釧路川沿い。ウォーキングするのにちょうどよかった。)

サービスエリアの少ない道東道(どうとうどう)をただひたすら東へと走ること270~280キロあまり。札幌からだと300キロには達しないくらい遠くへ行くと、たどり着いたのはまずは道の駅阿寒丹頂の里

 

釧路が太平洋沿岸の街なら、阿寒は湖の街。空港からもそう遠くない道の駅は海から湖に至る道中にあり、釧路・阿寒・鶴居村といえばタンチョウ観光で有名なところ。雪原に舞うタンチョウの群れという景色も、個人的には北海道観光の定番のひとつ。

 

タンチョウなのか、それとも単なるツルなのか。行ったのはまだ夏といっていい9月初旬だったけれど、冬にだけやってくるわけではなくツルはその辺を飛び回ってた。


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(ツルとシカ。自然豊か〜。)

大型の鳥が空からバッサバサ舞い降りてくると、やっぱり迫力がある。これが冬で雪の中だったら、きっともっとファンタジック。

 

そして釧路といえば湿原で、”日本最大の湿原”というものもこの目で見てみたかった。

 

国立公園が大体どこもそうであるように、釧路湿原国立公園もざっくり周辺すべてが国立公園内で、初めて行くとどこを目指せばいいのかよくわからない。

 

よくわからないなりに、釧路湿原といえばトロッコ列車のような観光列車ノロッコ号での観光でしょ。と、釧路駅からノロッコ号にも乗ってみた。


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行ってきたのは9月の初旬で、まだ晩夏と言っていい頃。平日とはいえ遅い夏休みを満喫する人達多数で、観光列車もギッシリ。湿原ウォーキングを楽しむ人達もどっさりで、もうちょっと閑散としてるかと期待していたので予想と違ってびっくりだった。


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遅い夏休みでもこれほど混むんだったら夏休み期間中はもっと混み合ってそうで、観光するにも根性や忍耐力が試されそう。

 

湿原を歩くのか、眺めるのか(カヌーやカヤックで下るという選択肢もあり)。歩くにしても眺めるにしても何しろ国立公園内だから、どこでもご自由にというわけにはいかず。

 

より原初の面影を残した湿原を安全に歩きたいと思う気持ちにぴったりだったのは、温根内の木道。はるばる出掛けてでも見たいのはこんな景色。


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国立公園になる以前から湿原はそこにあり、昔っからその辺を歩き回ってた人達と違ってビジターは、決められた場所で遊んでる方が諸々安心で安全。

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(ひろびろホッカイドーな景色。)

国立公園になった方が後だから、単なる観光目的で訪れる人達とはまた別の目的、例えば一種の里帰りや墓参りのような気持ちで訪れる人達もいるんだろうとも思った。

 

ノロッコ号の出発駅でもある釧路駅やその周辺は、フツーに街で都市。


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居酒屋っぽいお店はすぐに目につくけれど、それ以外を見つけようとすると難しかった。

襟裳岬に行った時も思ったけれど、”いかにも”と思わせる典型的な湿原らしいor襟裳岬らしい観光客向けの景色はそのままな一方で、全然らしくない生活利便性が整った脱観光地な景色が広がっていた。

 

脱観光地エリア>観光地エリアだと観光ルートの整備が進み、観光地エリア>脱観光地エリアなほど観光ルートもゆるやかになってバラエティ豊かで自由度も高くなるのかも。

 

釧路といえば夕日。夕焼けが美しい街としても有名だそうで、確かに釧路川にかかる幣舞橋からの夕景色はキレイだった。


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橋からは海に抜けた景色、海の方から見ると装飾性あふれた橋のせいかおかげかヨーロッパ、あるいは行ったことないけどイメージとしてのイスタンブールっぽくってステキだった。


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夕暮れ時だけでなく、朝ウォーキングしていても気持ちがよかった釧路川沿いは、アートがいっぱい。

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歩きながら楽しかった景色は眺めるだけでも気持ちよく、海の方を見ても街の方を見ても眺めが良かったホテルの前には、円山動物園前にある彫像と同じテイストの作品が。

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一輪のユリを手に鳥の翼に乗った女性の姿は、童話か何かがモチーフなのかも。

 

ラムサール条約登録湿地という名称は、北海道内でいくつか(例えばウトナイ湖サロベツ湿原、大沼)見かけるけれど、日本最大の湿地を擁する釧路は日本で最初のラムサール条約登録湿地なんだとか。

 

1975年の登録から、もう少しで半世紀。半世紀も経てば湿原の景色も変わり、環境に対する意識が変わると、自然環境豊かな景色に対する評価も変わる。

 

タンチョウだけでなく多様な水鳥が湿原や雪原を飛来する景色は、自然豊かだから絵になる景色。自然豊かでない場所に鳥類が大量に押し寄せるとヒッチコックの『鳥』的な景色になって、ちょっとだけじゃなくただ怖い。

 

吉祥の象徴として特に縁起物では昔からよく目にするツルは、羽ばたいてる姿も絵になるし、大地に降り立っても姿がいい。

 

背景は雪原や緑いっぱい、あるいは夕日がよく似合い、プライバシーを気にしなくてもいい場所で眺めたい。


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何しろ遠くて、日帰りできない。特によりフォトジェニックになる冬季になるほど気軽には出掛けられなくなって、ハードルが高くなる。だからこそ、湿原目的でもタンチョウ目的(←何しろ天然記念物)でも思い切って出掛けるのにちょうどよかった。

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