クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

松尾シェフの料理帖、読んだ

作りたいレシピがあったら、買い。以前はレシピ本を購入するかどうかのポイントは、作りたいかどうかだった。

 

最近は、ちょっと違う。作ることはなくても眺めているだけでいい。そういう料理があれば、購入のきっかけになる。

 

シェ松尾という名前は、デパートでも売ってる洋菓子のお店として記憶してた。そもそも松濤にお店のある一軒家レストランだったことも知らず、youtubeの動画きっかけで『料理をほめられたことがない人に捧げる 松尾シェフのレシピ帖』*1を買ってみた。

 

フレンチレストランのオーナーシェフだった人が、料理初心者や初級者にどのようなアドバイスをするのか。という興味80%で読んでみた。youtubeの動画でも丁寧かつ上品な語り口で、もしも料理教室があれば、こんな口調でやっていたんだろうと思わせる上品さ。

 

動画でも初心者向けにわかりやすく、時にはお店と違う家庭向けに大胆に解説されているけれど、本の内容もわかりやすくかつポイントが押さえやすい。上から目線ではなくフラットだから、アドバイスも受け入れやすい。

 

新しい(といっても2023年刊行だけど)料理本は、写真もきれいでただ眺めているだけで楽しい。

 

フレンチとなると、面倒というよりカロリーが気になってなかなか作る気になれないけれど、掲載されているレシピはどれも作りやすそう。ついでにそうハイカロリーではない料理が並んでる。

 

ハレの日向けに、ちょっといつもとは違うものにしたい時にもいいけれど、いつもの日にも加えたいお料理が並んでいて美味しそう。

 

料理動画はながら視聴に最適で、つい長く見てしまうけれど、本の方も気楽にリラックスしたい時に眺めるのにちょうどいい内容になっている。

 

むちゃくちゃ簡単で手抜きがいっぱいでも、むちゃくちゃ面倒で工程数もとびっきり多いわけでもない。ちょうど真ん中、それなりに工程数は必要で、料理した気分が味わえるレシピが集ってる。

 

リラックスしたい時に手に取る本は、眺めていてもキレイだけど学びがあってという内容だと、お得で嬉しい。学びは彩り。やっぱり料理において彩りは、大切な要素だと実感する。


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大通公園では花フェスタ2026札幌が開催中で、花壇以外も彩りいっぱいで目の保養になる。

*1:2023年12月発行kindle版

江戸と東京、二生を生き残った証言がフィクションの中に生きる

江戸と東京、社会が変われば組織も変わる。では、組織人は?

 

江戸幕府の組織である町奉行所が、東京府に組み込まれていく。その過程はどんなものだったのか。という興味から『江戸町奉行所 与力・同心の世界』を読んだ。

 

町奉行、与力に同心も時代劇や時代小説ではお馴染みのもので、イメージが出来上がっている。というよりイメージが先行している。イメージ先行の時代劇ではお馴染みの役職・組織を主人公に、本当のところはどうだったのかと、組織をつぶさに観察していた全5章から成る読み物。

 

江戸時代といえば260年も安定して続いた政体で、安定した体制のもとで文化も花開いた時代。とはいえ江戸は、世界史を見回せば新興の都市という指摘がまず面白かった。新しい都市は、古い都市とは立地も何もかもが違う。だからこそ組織も刷新できたはずで、江戸という新興都市に生まれた与力・同心という制度や治安組織は、上から下までこと細かに”しきたり”が決められている。

 

上から下まできっちり”しきたり”が行き渡ってる組織だから、組織が強かったという見方もできる。とはいえ窮屈そうで、フィクションの中に現れる、時には探偵役の与力・同心像より一見自由がないように見える。

 

上から下まできっちり”しきたり”が行き届いた組織には自由がない代わりに、組織から離れた場所では文化的交流が活発で、中には玄人はだしの人物も居て江戸文化の興隆に貢献していた。という指摘が、面白ポイントその2。

 

自由に乏しい組織が、闊達な江戸文化の興隆にひと役買っていたという構図は、公私の使い分けによって不自由さを逃れていたという意味でとても合理的。

 

そもそも幕末から明治への移行に興味があって手に取った本だったので、最も興味深かったのは第5章の『与力・同心の幕末維新ー江戸町奉行所の終焉』のパート。

 

やっぱり子飼いで新しい時代を始めるんだねと思う、維新後の新しい組織では、古い時代の生き残りは徐々に淘汰されていく様がもの哀しい。

 

もの哀しいけれど、最後まで与力・同心だった者たちは昭和のラジオ時代まで生き残った者もいて(寿命を考えたとき不思議でも何でもなく、江戸と東京の二生を生きている)、その証言は時代を越えて残された。

 

江戸時代は、江戸という新しい土地で新しい組織を始めたけれど、東京は江戸という隅々まで旧体制が行き届き、文化さえ盛んだった土地に新しい組織を作らねばならなかった。当然名前は変わっても良いものは引き継がれたはずで、名前を変えつつ新しい社会に応じた組織に作り変えていったはず。

 

その過程で零れ落ちる江戸のエッセンスのようなものは、新しい社会が安定に向かい、旧い時代を懐かしむ頃になるとフィクションの中で蘇るようになる。江戸の思い出や風聞は、時代小説を筆頭にフィクションの中に引き継がれ、後には映像作品となって現代まで続いている。という有り様は、新しい時代を迎える時の有り様として、納得感と既視感がある。

 

懐かしく思い出して振り返る。そういう思いを旧い時代に寄せる人が少数ではなかったから、語る人と語りを受け取る人双方に思い出が引き継がれ、イメージ先行の町奉行像が出来上がって引き継がれていったのかも。

 

裁くあるいは取り締まる側ではなく、裁かれる側が語って引き継いでいたら、実像は実像として後世に伝わっていたのかもしれないとも思った。


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今日は、ようやくこの時期らしくさわやかに晴れ渡って青空。昨日は雨のち晴れで、雨の中で踊る人たちもいた、YOSAKOI。YOSAKOIは、ヒラヒラと旗が翻って衣装もヒラヒラしていた方がそれっぽい。それっぽくないものもそれはそれで面白い。集団で踊る演舞という形式に、衣装や旗。どう考えても文化祭や体育祭の延長線上で、この時期の札幌中心部は、文化祭や体育祭のバックステージみたいで面白い。


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はじめまして、マンダロリアンとグローグー

ディズニープラスのキラーコンテンツ(らしい)、『スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー』見てきた。

 

本編となる実写ドラマはすでにシーズン3に突入しているとはいえ、見るのは初めてなマンダロリアン。全9作からなるスター・ウォーズ本編との連続性を感じるのは世界観のみで、マンダロリアンもグローグーも初めて見るキャラクター。

 

とはいえグローグーは、どこからどう見てもヨーダの一族で、グローグーの存在が、新しいスター・ウォーズと古くからのスター・ウォーズを繋いでる。

 

なぜマンダロリアンとグローグーは行動を共にしているのか。マンダロリアンとは何者か。といったシリーズの根幹に関わることは、本編のドラマシリーズでどうぞ。

 

ということでもあるのか映画では詳らかにされず、別にそれがフラストレーションになることもない。マンダロリアンとグローグーは、時に死にそうな目に遭いながらもこんな風に旅をしてるんだと、旅のひとこまを鑑賞した。

 

マンダロリアンの肩の上がグローグーの定位置で、一匹狼で群れないマンダロリアンがまだ幼いグローグーを連れ回せるのもグローグーはフォースの力に恵まれているから。

 

幼い身体には不似合いなほど強大なフォースの力に恵まれたグローグーと共に旅するのも、腕白でもいいたくましく育て路線なのかも知れず、遭遇する敵も二本足のヒューマンタイプより、想像上の生き物が具現化したようなクリーチャータイプばっかり。

 

メカメカしい機械やロボットと人間、そして知性やフォースのような能力に恵まれた非ヒューマンタイプの生き物で構成されるスター・ウォーズの世界で、今回の映画では人間が活躍する割合はほんのちょっとだったのが、印象的なところ。

 

二度はごめんと思うような、ヌルヌルして気持ち悪いクリーチャー大暴れ。

 

帝国VS共和国という、勧善懲悪でわかりやすい物語だった旧スター・ウォーズと違い、マンダロリアンシリーズのテーマは一見わかりにくい。わかりにくいけれど、幼くしてすでに強大なフォースの使い手の片鱗を見せるグローグーが健やかに育つ、グローグーを健やかに育てるがひとつの大きなテーマなんじゃないかと思った。

 

帝国VS共和国との戦いのように、二項対立鮮明な状況では、正しい振る舞いは身に付けやすい。だけど、正しい振る舞いや身の処し方のために戦いに身を投じるならナンセンス。

 

旅をするキャラクターは多いけれど、ただマンダロリアンと旅を続けようとするだけでも、戦場ではない場所にあってさえ敵や障害物に遭遇する。

 

旅という、生きるためによりハードな道を行きながら、それでも適切な身の処し方を学んで生存確率を上げていく。そういう道行きに見えた。

 

ジャバ・ザ・ハットの息子という悪名を背負ったロッタとグローグーが仲良くたわむれるほっこりシーンがあったけれど、良くも悪くも背負わされるものが重い者同士は意気投合しやすいを現したシーンにも思えて、グローグーの無邪気さと相まっていいね!を百万回したい場面だった。

 

スター・ウォーズという、映画史に残る名作を背負って登場した、新しいキャラクターたち。しかも、スター・ウォーズが熱狂的に支持された時代と違って、現代では可処分時間の奪い合いはより激しい。

 

グローグーがまだ幼く、仕草は愛らしく、庇護欲を煽る仕様になっているのはきっとわざとだと思うけれど、それでもグローグーは可愛い。グローグーのようなキャラクターを、可愛いと思わせるのも技術。

 

アニメで表現しようとすれば、もっと簡単そうというシーンばっかりで、だけどスター・ウォーズはやっぱり実写じゃないと、スター・ウォーズらしくない。ついでに、スペースオペラにせずホニャララにした方がもっと簡単と、実写ドラマにせずアニメにした方がもっと簡単は、きっと相似形。

 

観客ニアリーイコール、ファンやユーザーとの関係性が、コンテンツの行方を決める。現在のコンテンツは多少なりともそういう性質を持っているものだけど、ファンやユーザーは、時に信じられない行為に及ぶ。

 

そういう環境で、小さな子供をスター・ウォーズシリーズの主役級に据えるのはすでに途方もない挑戦で冒険で、まっすぐな愛情が注がれないと、マスターヨーダのように愛されて尊敬される存在には化けない。

 

文化の衝突以前に、生きるか死ぬかという死線をクリアしながら、健全性の純度が高くなって磨かれていく。愛らしい可愛らしいと愛情を受け、愛されて尊敬される存在となるのか、それとも新たな道を行くのか。あるいは、失望や絶望を味わってダース・ベイダーのようになるのかは、グローグーを見守る人すべてに関わってくるのかも。

 

ドラマシリーズ本編より面白かったら、映画で満足してしまう。ドラマシリーズ本編に興味をもってもらう、あるいはスター・ウォーズという世界に興味を持ってもらう導線として、とてもよくできていたと思う。

 

マンダロリアンから真っすぐな愛情を注がれたグローグーは、マンダロリアンの危機には、勇敢かつ勇ましく駆け付け、可愛いだけじゃない面を見せる。これからも見たいのは、ただ可愛いだけじゃない姿。

 

雪まつりの会場で見なかったら、マンダロリアンのこともグローグーのことも知らないままだった。潜在的ファン層に訴えるタッチポイントは、これからますます重要になっていくんだろう。


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自家製大豆ミート

大豆ミートという商品が出回るようになって、久しい。呼び方こそ目新しいけれど、要するにそれは豆腐の加工品の一種でしょ。と思っているので豆腐で作ってみた。

 

昔から作ることはあったけど、今風に名付け直せば自家製大豆ミート、めっちゃ簡単。時間さえあればできる。

 

まず、豆腐を買ってくる。豆腐一丁300gを水にさらしてから(調理する前はいつもそうしてる)、冷凍保存できる密閉袋に入れて冷凍しておく。

 

四つ割サイズだと、ちょうど水切りしやすいサイズ。冷凍した豆腐は冷蔵庫内で自然解凍し、豆腐をよく水切りする。はい、完成。

 

この時点で大豆ミート状のポロポロができるので、あとは調理に使うだけ。ポロポロだからひき肉と同じように使えばよく、今回は自家製大豆ミートでそぼろを作ってみた。昔風に言えば、”豆腐そぼろ”。

 

味付けは、砂糖としょうゆが各大さじ1と1/2、みりんと酒は各大さじ1で、しっかりしたそぼろあじ。そのままふりかけのようにご飯にふりかけてもよく、ひき肉そぼろの代わりに使えば、三色そぼろにもなる。甘辛いから卵でとじてもよく、何なら玉子焼きにもできる。

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各種野菜とあえれば、白和えとはまた違った豆腐と野菜の副菜ができる。豆腐は色々な用途に使えて万能だけど、日持ちしないのが難点。難点ではあるけれど、冷凍して水切りすれば簡単に大豆ミートになるので、やっぱり優れもの。

 

豆腐も、フレーバー付きになったりスティック状になったり。外見がいろいろに変わるほどに、国際化への道をたどっていると思う食材で、真実国境を越えて色々な地域でローカライズしてる食品だから、近年は特にバリエーションが豊富なんだろう。

 

ローカライズして進化した商品の里帰りがどのくらい根付くかは、ある種のバロメーターで目安なんだとも思う。コンビニよりもスーパーの方が地域色が現われやすいそうで、そういう意味でご当地スーパーの地域色チェックは、いろいろな発見があるから楽しくて面白いのもよくわかる。


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とも遠方より来る

ともは友か朋か。どちらにしても、遠方からはるばる訪ねて来てくれるのは嬉しいこと。

 

周囲に同胞などいない状態ではなおさらそうで、遠路はるばる訪ねて来てくれる朋友のため、往来が頻繁になるほどに何らかの利便性が向上する。

 

遠方より来る友や朋がいるかいないかで見方が異なるものが、人が活発に行き来する街にはあったりする。例えば、昼呑みの場所。

 

集まろうと声を掛ければ、みな小1時間もすればやって来る。そういう距離では不要でも、わざわざ予定を立てて来てくれて、わざわざやって来るような距離だから時間の融通が難しい朋友がいたとき。時間の融通が難しい方に合わせ、融通が利く方が動いた時に現れるのが、それまではなかった形態のサービス。

 

目的は楽しい会食で、楽しく会食するための潤滑油があった方がより場が和むから潤滑油付きで。となったとき、会食の場がホテルの会議場や宴会場からより敷居の低い場所に出現する。そもそも最近では、リーズナブルに使える宴会場や会議室を備えたホテルが少なくなっている。

 

お茶を飲むような時間帯に出現する会食の場は、べろんべろんになるには不似合いで、だからべろんべろんにはなりにくい。また、交通機関の締め切りに合わせて動くからそう遅くなれないし、不覚の事態も減らせる。

 

遠方より、わざわざ足を運んで来てくれる。そういう人を安全にもてなすための逆算を重ねていくと、逆算など不要な人からみたとき有用性みたいなものが見えにくいものが出来あがる。それだけが全てではないだろうけど。

 

カフェなどで一人で過ごす時間はいってみればタコツボで、タコツボから出たいと思った時、適当な場所がないとタコツボに入り浸りになってしまう。

 

だから敷居の低い会食の場は、いってみればタコツボの外。条件的にタコツボの外に出るのが難しい人にとっては、小休止の場。見方を変えれば止まり木のようなもので、適時適当な場所に止まり木状のものを用意する人は、やっぱり全体を見ている。

 

それまでにはなかった形態のサービスができた時には、逆算を重ねていくと存在理由みたいなものがなんとなくわかってくる。もうひとつ例を出せば、手荷物預かりサービスみたいなものもそう。困ってる人がいつも、やって来る人だけとは限らない。やって来る人、やって来る人をもてなす側。双方がお困りだと、困りごとを解消するサービスも生まれやすくなる。遠方よりやってくる人がより嬉しくて楽しいのは、困ったがない状態。


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(北海道産シャルドネ、美味しゅうございました)
ライラックまつりの今頃は、街中にふんわり甘くいい香りが漂う季節。ライラックに藤に、ホウノキの花にトチノキの花。足元を見ればスズランで、芳香漂う季節がやって来れば、観光シーズンの本格的な始まり。


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急激に冷え込んだ日があったせいで、咲き始めが早かった大通公園のライラックも思ったより長持ち。ライラックまつりの最期までライラックがちゃんと咲いてそう。


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(写真にはライラックまつりが始まる前に撮ったライラックもあり)

ファンタスティックでワンダフルな『ひつじ探偵団』見てきた

毎日よく働き、こまめに羊たちの世話をしていた羊飼いが殺された。がーん。大事件!!!

 

羊飼い殺人事件の謎を解くのは世話をされていた羊たち。事件など起こりそうもない牧歌的な街(多分、イギリス)を舞台に、大切な羊飼いを殺された羊たちが大活躍する、キュートでチャーミングでファンタスティックな『ひつじ探偵団』を見てきた。

 

まず、羊がリアル。可愛い子羊たちはやんちゃで、羊たちは個性いっぱい。個性豊かなだけでなく、羊飼いによる”読み聞かせ”という薫陶のおかげで知性も備えている。

 

群れの中でもお利口な羊・リリーをリーダーに、羊飼いを殺した犯人を見つけようとするけれど、彼らの言葉は人間には通じない。

 

羊は人間の言葉がわかるし、人間社会もわかる範囲で理解しているけれど、人間は羊たちが人語を解してるとは思ってないし、ましてや殺人事件を捜査するような知性があるとも思ってない。という状況を上手に利用して笑わせてくれる。

 

『ライオン・キング』は動物たちだけの世界だったけれど、『ひつじ探偵団』では人間と動物が共演している。だから、見た目はまったくもって単なる羊で羊にしか見えない。なのに個性もあれば知性もあり、それでも人間と共演する以上、人間の前では動物でしかない。という設定の妙がとにかくおかしくて、絶妙。

 

設定がそもそもおかしいから、リアリティゼロ。

 

殺人事件をテーマにしていても殺伐さや陰鬱さ、あるいは戦慄や恐怖といった現実の犯罪が持つネガティブさは排除されている。犯罪が発するネガティブさは排除されているけれど、人間社会だけでなく羊社会が持つネガティブさはきっちり描いているから、虚構たっぷりの絵空事であっても奥行きがあって強度がある。

 

設定に強度があるから、最後までこのクオリティは崩れることはないんだろうと安心して見ていられた。

 

『名探偵コナン』のように、殺人という犯罪がテーマであっても見終わったあとの気持ちはハッピーで、何しろキュートでチャーミングでファンタスティックだから、きっと繰り返し視聴にも耐える。何しろ、可愛いだけじゃない♪から。

 

『名探偵コナン』を飽きることなく繰り返し見ていられるのは、まずキャラクターがいいから。次にキャラクター同士の関係性が好ましいからで、毎回起こる事件の謎ときに対する優先度は低く、だからネタバレした後でも気にすることなく繰り返し見ていられる。そういう見方をする人が、多数派か少数派かは知らないけれど。

 

あっと驚くような謎解きを期待するとちょっと違うけれど、謎解きの過程は唯一無二で、以後この手法を真似たときには、『ひつじ探偵団』のオマージュやパロディと呼ばれそう。低年齢からでも楽しめるけど、決して低年齢だけのものじゃない実写映画。

 

リアリティに背を向けた先が、いつもアニメとは限らない。

 

という、子供だましの著しい進化や進歩を実感する作品でもあった。

 

ヒュー・ジャックマンといえばウルヴァリン。羊より登場シーンはずっと少ないながら、羊飼いとしての存在感は抜群で、ハートフルコメディ作品のなかでも違和感なし。何しろ羊は、羊飼いのジョーから教わったこと、読み聞かせてもらった内容をそれはそれはよく覚えていて心に留めていたものだから。

 

羊と羊飼いの関係性が、羊飼いと人間よりも濃くて温かで、コメディだけどハートフルなのは、そのおかげ。リアリティゼロの作品は現実の裏返しで、こうだったらいいのにを描いているから、キュートでチャーミングでファンタスティック満載なのかも。かもかも。現実逃避にもってこい。


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美しい50代が増えたから日本は変わった

美しい50代が増えたら日本は変わる。そう若くはないけどキレイな女優さんを起用した、化粧品会社のテレビコマーシャルを今でも覚えてる。

 

美しいだったか、キレイなだったかはうろ覚えだけど。

 

キレイでいられるのなら、可処分時間か可処分所得のどちらかあるいはその両方に恵まれているからで、つまり余裕がある。余裕があって、なおかつ人前に出る機会が多い人は身だしなみに気を遣うから、気を遣わないあるいは気を遣えない人よりも身綺麗。

 

つまり、美しい50代が増えた状態は、時間やお金をセルフケアに回せる余裕があって、なおかつ人前に出る機会が多い、社交的なオーバー50歳が増えた状態。そして今街を見渡したとき、オシャレで身綺麗な50代は、男女を問わず増えている。

 

キレイなオーバー50歳は、決してフィクションの中にしかいない人種ではないから日本は変わったんだと思う。

 

加齢=劣化ではなく、美しく年齢を重ねていくのはタレントや芸能人など業界の人に限らない。一次産業や二次産業よりもサービス業に従事する人が増え、広義の接客業に従事する人は若い人に限ったことではなく、シチュエーションに応じて年齢を重ねた人が活躍するシーンも増えた。

 

美しい50代が増えたらと、テレビが今よりも発信力の強い時代に大きな声で喧伝されたということは、その時代に美しい50代、美しく年齢を重ねられたのは今よりもずっと少なく少数派だったということになる。

 

化粧品会社のコマーシャルだから、以前と以後でまず違うのは”エイジングケア”商品の拡充。余裕があってセルフケアに気を遣うことができれば、加齢による衰えはずっと遅くなる。

 

化粧品にファッション。きれいな50代が”以前はなかったもの”だったら、きれいになる手段が独占ではなく、手に取りやすい価格に抑えられて誰にでも見つけやすい場所に置かれたら、きれいになれる人は一挙に増える。言ってみればきれいな人の民主化が始まる。

 

きれいになれる手段はあっても、限られた人しか使えなかったらきれいな人はいつまでたっても増えない。増えないから、限られた手段を独占している人は、他の人よりいつもきれい。他の人よりいつもきれいという優位性は損なわれる代わりに、きれいな人がたくさん増えるのがきれいの民主化。

 

身綺麗が当たり前になった人たちは、きれいになる手段を自分たちなりに改良していくから、例えば高みに達してそれ以上の伸びしろがなかった界隈に、別の解が生まれる。

 

ところでいつも身綺麗でいるには、ある種のエネルギー、やる気や習慣のようなものが必要となる。余裕があるはずの人が身綺麗とは言えない状態であるなら、何らかのエネルギー不足、やる気や習慣が損なわれている状態と言える。きれいでいるためのハードルが下がったとき、きれいになるための手段ががんばらなくても手が届くところまで来たら、エネルギー不足も解消しやすくなって解消に向かい、きれいな状態に戻る。

 

きれいな50代が増えた状態は、まずきれいの民主化できれいになる手段が身近になる。次に分化または分岐で、手段が多様になって細分化していく。

 

手に取りやすい価格のきれいになるための手段が増えるにつれ、よりきれいをめざす人向けの頂きは高くなり、高価格帯という商圏の頂きもより高くなっていく。

 

手に取りやすい商品圏のアイテム数が、年々夥しくなっていく界隈を眺めていると、そんな風に感じる。

 

先進国で、可処分時間にも可処分所得にも恵まれ、セルフケアにも熱心なオーバー50歳なんならオーバー70歳でも男女を問わずきっと驚くほど美しく、すべてが真逆の先進国ではない同世代と比べたとき、バケモノじみているのは美しい方なのかもしれない。


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初夏のような陽気に恵まれてもいっときで、いいお天気が長続きしない。まだGWが終わったばかりなのにライラックの花はもう咲き始めていて、すでにいい香りを漂わせている。


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