クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

型を観る

モンテクリスト伯を簡潔にまとめると、“人に好かれる前途有望な青年が、奸計によって濡れ衣を着せられ牢獄に送られて、奇跡的に脱獄を果たしたあとで、陥れた相手に復讐を遂げていく”復讐譚。

 

復讐に乗り出すまでには相応の時間が経ち、その間に主人公エドモン・ダンテスを陥れた人達はそれぞれ出世している。本来なら手の出しようのない相手に立ち向かっていくのが、後半の見せ場で見せ所。前半は、好青年が訳も分からないままただひたすら辛い目に遭わされるので、読者も辛い。

 

主人公が訳も分からず辛い目に遭わされるといえば、『十二国記』の第一巻もそうで、名作は名作を踏襲するものなのかも。

 

シェイクスピアアーサー王。古典には型があり、古典を踏襲して新しい何かを生み出す方が、圧倒的に楽。だから、新しい何かを生み出す必要があると古典に通じるようになり、古典に通じているとどの型を踏襲しているのかも見破りやすくなって、簡単には動じなくなるのかも。

 

古典に通じているはずの人達が、“型なし”と呼ぶならそれはまったくの新作で、型が出尽くしたあとに真っさらな新作を見つけると、感動するよりも違う発想や異なる思考過程にかえって恐れを抱きそう。

 

発想も思考も異なるなら、文化が違う。

 

違う文化から来たものを同じ文化の中に並べると、差が際立って違いもより明らかになる。

 

辛い目に遭わされた前途有望な若者も、時が経てば名誉が回復して、有望だった前途にふさわしい後半生を送って幸せになる。というモンテクリスト伯のストーリーは、革命やナポレオンに翻弄された時代の気分に、恐らくは願望も込みでピッタリ合っていたから好まれた。

 

好まれたストーリーの型を壊して台無しにする“型なし”は、古いも新しいもなくただの破壊衝動で、建設的に新しい何かを始めようとするものと一緒に並べると、きっとその違いがよくわかる。