関東大震災*が発生したのは、お昼どき。
正午になろうかという頃で、昼食準備のために火を使っている家庭が多く加えて当時は密集した木造住宅ばかり。だから火災による死傷者、建物焼失が多かったんだと、これはその季節がやって来るといろいろなメディアで刷り込まれてきたこと。
震災による建物倒壊 → 火災発生による焼失という惨事を教訓に、木造ではなくレンガ造りで耐震性を高めた、より強靭な街づくりをめざしたんだと、これもどれとはっきりソースを挙げる気にもなれないほど、幾度も繰り返し教え込まれてきたこと。
『揺れる大地を賢く生きる 京大地球科学教授の最終講義』を読んだ。地震と火山噴火、それらのテーマをアカデミックな立場からどう発信するのかといった科学コミュニケーションについて書かれたもの。
BGMならぬBGA、バックグラウンドアニメーションとして選んだのは、『東京マグニチュード8.0』。
『揺れる大地を賢く生きる 京大地球科学教授の最終講義』は、アカデミックな立場から書かれた読み物だから、主語がでかく(何てったって語り手は、旧帝大、西の雄である京大教授の人気講座だ)タイムスケールも長い。
例えば日本には活火山が100以上あるけれど、タイムスケールは一万年。千年・万年単位が地球を語る時の単位で、100以上ある活火山のうち、もう少し短いスパンでヒトの一生に関わってきそうなサイクルに絞り込むと、その数はずっと減る。
だから、マイホームの取得やもっと卑近な週末や次回の連休にレジャーとして山登りやトレッキングに火山としても知られている有名山に行くけれど、安全性はどうなの?噴火しないの?という疑問に対する解はない。
それがアカデミックな立場からの発信で、千年万年というタイムスケールをもっと短いスパンやスケールに落とし込むのは、アカデミックそのものがやることではないんだということがくっきりはっきりする。
起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。
それでも可能な限り可能性を絞り込んで今言えるのはここまでで、可能性を絞り込む作業そのものがすでにサービス。一般的なサービス業から受けるサービスとはちょっと趣きが違う。
”揺れる大地”というタイトルは、滅多に揺れることなどなく地震など起こらないエリアや国から来ると、実感するはず。
日本に生まれ育ってすでに半世紀や還暦、あるいはそろそろ米寿であれば、震度3~4はアラ、揺れたという程度で、ちょっとおかしいとなるのは、震度こそ3や4でもないけれど有感地震がずっと、長期に渡って続く場合や大きな揺れが来た時。
そうした、今回はちょっと違うぞという感覚は、経験することなく体得するのはきっと困難で、困難だから経験がものを言う。
だから、本来著者のような立場の人にレジャーの予定の可否やマイホームのための好立地を決めてもらうものではないんだ、ということもよくわかるはず。
そして読み通したあとで、日本で絶対に安全だと言い切れる場所、どこ???となるのが、読み方としては大正解なんだと思う。日本で絶対に安全だと言い切れる場所はkindle価格で931円、283ページの新書を一読しただけでわかるはずはない。ないけれど、聡い人ならその手掛かり、解けないはずのパズルを解く端緒にもなるのがアカデミック。
BGAとして選んだアニメ、『東京マグニチュード8.0』では、姉弟だけで出掛けた自宅とは離れた場所で、保護者不在のまま子供が大地震に遭遇し、自宅へ、日常へ戻ろうとするストーリーで、過去の震災で本当に嫌な悲しい思いをした人は見ない方がいいお話。
道路に橋に高層建築物がへしゃげ、交通が寸断され、揺れ続ける大地の上で前に進んでいると実感できるのは自分の足だけ。先を急ぐ大人たちは子供を邪険に扱うという状況で、地震について考えた経験と、書籍に囲まれ揺れない大地の上で地震について考えることは別モノ。
本来別々のものが繋がった時に目にするのは、知識が知恵となり、知の恵みとなって顕現した時だけ。ここには防災、あそこにも防災と、形になった時だけ。
火山が噴火すれば文化は吹き飛ぶという趣旨のフレーズが、揺れる大地~の中にあったけれど。
逃げ惑い、不自由や不便かつ何もが不足しがちで不衛生な環境で、文化が花開くわけがないから、共感しかない。
好き嫌いなど言えないはずの非文化的な環境で、それでも好き嫌いを発揮しているのなら、その人は文化に守られている。アニメは、より直接的に感情に訴えてくる。だから感情駆動型の防災には、よりお役立ち。


走るという漢字をデザイン化した、北海道マラソンのマーク。直感的にわかりやすい。本州とは違って涼しい気候で、きっと走りやすかったに違いない。記録的な暑さもひと段落で、速やかに秋へと移行中。