クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

聖と俗

応仁の乱から戦国時代といえば、荒廃というイメージがぴったりくる。

 

国境のような大きなものから、集落を隔てる小さなものまで。境界をめぐって、そこかしこで小競り合いが起こっているのが荒廃の具体的なイメージ。

 

大きなものから小さなものまで。戦費に生産が追いつかず、生産が蓄えに回らず使うばっかりだと、そりゃ土地は荒れるわな。

 

だから、土地の荒廃にも構わず戦(いくさ)に明け暮れているのなら、経済観念が発達してない何よりの証拠。経済観念が発達すると、戦費を楽に調達するためにも生産に力を入れるようになって、蓄えることにも気を配る。

 

古い言い方だと兵農分離で、生産と兵力で役割分担ができていると生産が貯蓄に回りやすい。皆兵で誰もが兵力を担うばかりで生産は蔑ろだと、戦費に生産が追いつかずにいつまでたっても蓄えができないから、いつまでたっても戦から逃れられないのは、今も昔もきっと変わらない。

 

時々、ケーキやケーキっぽいパンを焼く。

 

心がけているのは、どこでも手に入るありふれた材料で作ること。普及品しか使ってない。なのに、特に出来立てだと十分に美味しくて、そのたびに普及品のレベルの高さに感心する。

 

大量生産に大量供給で、量が増えるほどに質が向上する普及品はエンドユーザーの方を向いていて、量が増えるほどに質が劣化する普及品は、エンドユーザーとは別の方向を向いていると実感する。

 

どこの製品を選んでも、普及品のレベルに大差がない時は競争力的なものが拮抗している状態で、普及品のはずなのに個々の製品レベルに甚だしいバラツキがある時は、もう競争にさえなってない状態なんだと、これも勝手に思ってる。

 

超人ではない個人や集団が、競争にさえなってない、競争しなくてもいい状態になると何が起こるのか。

 

わかっている側が次にやることは、競争にさえなってない・ならない状態から競争できるレベルにまで引き上げることで、超人ではない個人や集団が一強を保つのはラクじゃない。

 

超人ではない個人や集団は、腐っていく。腐るから強いままではいられず、強くないその肩の上に、アトラスのように大きな何かを背負っていたら、その重みに負ける。

 

腐らない個人や集団は超人や超人集団となって、客観的に見た時には“聖なる”という形容詞がよく似合う権威に近付いていく。超人や超人集団が、腐らないための超人的努力を重ねていくと、益々すぐに腐る個人や集団とは乖離していくばかり。

 

だから競争にさえならない、本来は普及品のはずだった個々の製品にひどいバラツキが生まれるような状態は、案外超人や超人集団がもたらすものなのかも。

 

量を取るのか、質を取るのかを考えた時。

 

質を取ると、数が揃わないから普及品にはなれない。まずは数を揃え、揃ったところで質を上げていくようにすると普及品の量産体制が出来上がり、質と量を備えた普及品が普及する。

 

普及品のレベルは、ちっーとも上がってない。

 

なのに、本来普及品のレベルを引き上げることが本来業務なはずの、個人や集団の超人レベルだけは上がりまくりじゃん?あんたたちだけが、普及品からどんどん乖離してゆくばかりじゃん?

 

という時が、質と量のどちらを選ぶのかのターニングポイントになるんだろう。

 

何年もダラダラと争いだけが続き、争点が何かさえもはやよくわからない、歴史上の事件名だけが有名な出来事は、聖権力と俗権力の諍いという要素を考えると、よりわかりやすくなった。

 

俗権力は、個人や集団が腐ることにより自覚的で、聖権力は、腐らないように超人的努力を絶やさないというポーズを崩せないのが、きっと諍いのもと。腐らないように超人的努力を絶やさないというポーズが、聖権力の虎の尾で、虎の尾を踏みに行ったのが、ルターやカルヴァンで信長だったと考えると、遠い昔の出来事もすごーく身近になる。