クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

眺めのいい場所

きれいなお庭で有名な、眺めのいい場所にある観光地のとある寺社を訪れた時のこと。

 

眺めがいいのは、辺鄙な場所にあるから。きれいなお庭と眺めを堪能しているすぐそばで、どうすれば寺社の持ち物であるお墓に入れるのかと尋ねている、ひとり旅の人がいた。

 

軽く20年は前のこと。後を見る人がいない方の新規受け入れはお断りしてますと寺社の人は丁寧に答えていたけれど、今だったらどう答えるのか。核家族が増えたら、「後を見る人がいない」ケースは増えていく。

 

多様性のある社会と言った時。まず最初にイメージするのは、元気にアクティブに動き回る人物像で、動き回る人の目も髪も肌の色もバラバラな老若男女が揃っていると、とりあえず多様なんだと思える。

 

目も髪も肌の色もバラバラな老若男女が揃っていた社会そのものは、古代にだってあったに違いないんだけどさ。多様な社会の構成員各々に人権が保障された多様な社会は、多様でなかった社会よりずっと歴史が浅い。

 

だから多様な人たちが死後に眠る場所も、アクティブに動き回る多様な人物像を反映して多様性にあふれていれば、死後の多様性もちゃんと担保されていると言えるし思えるんだけど。

 

死後に眠る場所はまだ多様ではなくて、好みではないけれど何しろ急ぎのことだから郷に入れば郷に従うで、“その地の伝統”に準じているのか否かが気になるところ。

 

観光地だけど辺鄙な場所にある、知る人ぞ知るような場所に、一見のそれも外国人が来やすいかというと、どっちかというまでもなく敷居が高い。

 

敷居が高くないのは有名観光大寺院の方で、大寺院で色んな訪問客がいるから多様性に対してもともと免疫がある。

 

アクティブに動き回る多様な人物像を反映していれば、死後に眠る場所にも多様性があるはず。死後に眠る場所は現在多様性に向けて準備中だから、アクティブに動き回る人物からも多様性が失われていれば、生と死が繋がっている。

 

入り口と出口。出口の多様性は失われているかそもそもないのに、入り口の多様性だけは活発でアクティブだと、生と死が繋がってる気がちっともしない。

 

目も髪も肌の色も、何なら年齢といった見た目はバラバラなんだけど、中身はみ~んな一緒で一様だと、そもそも多様性を気にすることもない。

 

有名な会社の菩提寺となっている有名観光寺院を初めて見た時は、そんなものもあるんだと思った。明治維新に富国強兵に戦争で経済成長に。後ろではなく前しか見てなかった人たちが安心して眠れるのは、ともに前を向いていた人達のそばなんだと考えると、違和感は何もない。