クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

片手間

虚飾に彩られた世界をホームグラウンドとする、勝ち気で高慢な美人は、ホームだから裏も表もよくご存じ。

 

よく知ってるから、いくらお似合いであってもホームに染まった同類には目もくれない。

 

同類には目を向けない者の前には、えてして違う世界をホームとする者が現れ違う世界へ連れ出そうとするけれど、結局は生別や死別で勝ち気で高慢な美人だけが生き残る。という仕様のフィクションは、何があっても生き残るタイプの勝ち気で高慢な女性じゃないと、そもそも絵にならない。

 

絵にならないだけでなく、違う世界に連れ出した途端にポックリいくタイプだと、お話も続かずお話にもできない。

 

手を変え品を変え。

 

何かあったらすぐにポックリいくタイプの女性を主人公に、違う世界に連れ出し何かあるごとに次々とポックリいかせる仕様のフィクションは、ある意味とてもシュールにリアルに女性の自立を描くことになる。だけどシュールでリアルなものは、シュールでリアルなだけに直視することが憚られ、万人受けはしない。

 

万人に受けるステレオタイプなフィクションは、やっぱり高慢で勝ち気な女性が、違う世界に連れ出されようと何だろうと、何があっても生き残る仕様のほう。

 

万人受けするフィクションに現実が寄せていくと、現実に生き残るのも高慢で勝ち気なタイプばかりになる。

 

高慢で勝ち気なタイプばかりが集い、いつでもどこでも喧々諤々でやかましい。という光景は、現実の多様性をまったく反映してないから嘘くささ満点。現実も高慢で勝ち気なタイプばかりが生き残る仕様になっていたら、フィクションでもわざわざそういう仕様のものを求めるわけがない。

 

歴史は繰り返す。とか言っちゃうと一見カッコよく聞こえるけれど、予算の縛りもあれば栄養といった縛りもある、一週間分の献立だってイチから考えるのは面倒くさい。

 

面倒くさく、コストにも労力にも合わないなら手抜きになって、すでに出来上がったものを二番煎じ三番煎じでアレンジしつつ、歴史は繰り返すからと言い訳しながら同じようなものを出すと、面倒が減る。

 

そもそも面倒なことが嫌いなタイプは、面倒なことには手を出さない。

 

勝ち気で高慢で、何があっても生き残るタイプしか生き残れないよう設計された退屈な仕様に手を出すのは、そもそも退屈を厭わない、むしろ退屈な方が片手間にできるから喜ぶタイプだけ。

 

退屈なことが義務になっていても代理を立てればいいだけで、代理が許されるようになるとますます同類しか寄って来られないような場所になって、ただ煮詰まっていく。

 

白い綿毛がフーワフワな季節。すっかり新緑の季節になったのに、ベストシーズンを楽しむ観光客がいないと、喜ぶのは美しい景色やベストショットに人はいらないタイプかも。