クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

補助線と調理バナナ

強い言葉を使うと逆に弱く見えるのは、いくら強い言葉を使って俺・私たちは強いんだぞ~、怒らしたら怖いんだぞ~、べろべろばぁ。

 

と強がってみせたところで、あんたら強者に見捨てられたらおしまいやん。というのが透けて見えた時。何かの威を借りての虚勢だというのが、すっかりばれてたら逆効果。

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調理バナナ。

調理バナナ。変わったものを見つけると、つい買ってしまう。

 

変わった食材だけど、変わったレシピは特に思いつけないので、カレーに入れてみる。ザクザク雑に切って、放り込んだだけ。どこかのカレー伝道師に忖度したわけでは、まったくない。フリッターにすることもちょっと考えたけど、揚げ物は華麗にスルー。

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食感はジャガイモみたいにホクホク。味はやっぱりバナナ。甘みは少なく、噛むほどにあぁバナナだねというお馴染みの味が広がっていく。リピはなし。

 

酢豚にパイナップルは許容できるけれど、ポテトサラダの缶詰ミカンは許容できないタイプ。許せる許せないの違いは、きっと酸味にある。トロピカルで酸味があるものはOK。トロピカルでも酸味が感じられないと、NG。

 

という実体験を通じて、合う合わないというデータが積み上がっていく。

 

ある特定個人Aを、数年ではなく10年以上というロングスパンで観測し、その嗜好や好み、どのような本や映画その他のフィクション・ノンフィクションをインプットとして取り込んで来たか。逆に、決して近寄らない領域や嫌ってるものは何か。

 

手許に膨大なデータがすでに積み上がっていたら、その人物を高ストレス環境にわざと置いて、究極の選択を迫ったときにどう反応するか。もうね、山ほどデータを持ってる人ならすっかり承知してるに決まってる。

 

東インド会社というグローバル企業の走りのような会社は、世界がひとつになったら意味をなくし、その活動を終えたんだってさ。

 

今は西欧先進国が中心でも各国の政府が志を同じくして、あれは要らんとひとつになろうとするのは、お払い箱にしたい何かがあるから。なのかもね、かもかも。

 

オーストリアで極右政権誕生のニュースに、衝動買いした『アドルフに告ぐ』最終巻。今さら全巻読破するのはダルイから、最終的にどうなったのか結末だけをおさらい。

 

アドルフ・カウフマンという日独ハーフの男性が主人公。舞台は第二次大戦下のドイツおよび日本で、ナチスに傾倒し、忠誠を誓ったいわば戦争の加害者を主人公にしている。

 

少年の成長物語といえば清く正しく強くなるのが王道だけど、『アドルフに告ぐ』は、清くも正しくもなく、けれど強くだけはなった青年を描いてる。しかもナチスの威を借りてのことだから、単なる悪ガキより質が悪い。とはいえ繊細かつ神経質な面もあって、生いたちと環境のせいもあるけど、それなりに複雑で奥行きもある人物。

 

アドルフ・カウフマンの横暴かつ非人道的な性格を強調するように、親友には好人物のアドルフ・カミルを配してる。こっちのアドルフはユダヤ人で、ユダヤ人だけど、二人はある時点までは親友だった。

 

アドルフ・カウフマンは、高慢でイヤな奴ではあるけれど、同時に母親や歪んではいるけど自分が気に入った相手に対する愛はそれなりに深く、その愛情の深さが仇となって、時として彼を不合理な行動に駆り立てる。

 

この物語のとっても秀逸なところは、戦後を用意しているところ。

 

第二次大戦が終わり、ナチスとして大いなる加害者だったアドルフ・カウフマンは、戦後は曲折を経てパレスチナゲリラとして生きていた。

 

ナチスが敗北し、価値観が逆転した西欧社会で生きるより、非文明的であってもパレスチナの方が生きやすかったのか。妻と娘も得てそれなりに安定した生活は、やっぱりそう長くは続かない。

 

パレスチナゲリラとして生きるアドルフ・カウフマンの前に、イスラエル兵となったアドルフ・カミルが現れ、彼らイスラエル兵によってアドルフ・カウフマンの妻と娘は殺されてしまう。

 

はい、ここで、ナチスとして大いなる加害者であったアドルフ・カウフマンは、イスラエル兵(=ユダヤ人)に愛する家族を殺されてしまうという、大いなる被害者へと立場を変える。

 

被害者と加害者が立場を入れ替わるという「補助線」が引かれることで、単純な二項対立で語ることのできない世界が出現する。

 

ユダヤが悪いと言い募れば、あんたたちナチスユダヤに一体何してきたんだと返される世界で、妻子を殺され生きる望みを失ったアドルフ・カウフマンは、アドルフ・カミルへの復讐に執念を燃やす。

 

やられたらやり返すを、何回繰り返せば気が済むの???を地で行くように、アドルフ・カミルにはアドルフ・カウフマンをこっぴどい目に遭わすじゅうぶんな理由もあるんだけど。でもさ。

 

被害者と加害者と。立ち位置が変わる争いを繰り返すだけだったらいつまでたっても、紛争は終わらない。

 

アドルフ・カウフマンは一身で二生を生きた人だけど、三回目の生を見つけるには、あまりにも遠くて過酷だったから、個人的復讐に生きることにした。

 

そんじゃあ三回目、四回目行っとくわと、簡単にリセット繰り返せるゲームじゃないでしょ、リアルな世界は。

 

アドルフ・カウフマンはフィクション上の人物で、もう後がないからやることも滅茶苦茶。アドルフ・カミル出てこいやと戦場で一対一の決闘を望むんだけど、そんな呼び出し、無視すりゃいいんだよね、ほんとは。

 

でも『アドルフに告ぐ』はフィクションで、最後にはエンドマークつけなきゃならないので、戦場に出てきちゃうんだな。

 

お前が悪いに応えてノコノコ出てきて殺し合いしたら、そこにはもう共存の余地なんてない。

 

アドルフに告ぐ』から半世紀以上たった現在は、もっと世界は複雑。双方が被害者で加害者なら、そのどちらを生かすのかについて、さらに複数の補助線が引かれる。

 

わかりやすく解きほぐしやすい問題なんて、もう残されてない世界で、解決までの道筋をどうつけるのか。補助線を引いて敢えて単純化し、二項対立を繰り返す世界は、ツルハシを売るビジネスだけが儲かるだけで問題の解決からは遠ざかるだけ。という悪寒がするので、あったかい飲み物飲んでから寝ましょ。

 

お休みなさーい。