知者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶとか言うけどさ。
例えて言うならそこは真っ白なキャンバスで、いまだかつて誰も見たことがない、人類未踏の領域にはそもそも学ぶべき歴史なんかなし。
脳ミソではなくまずは身体を使うのなら、そこはフロンティア。フロンティアの開拓を経験したものが経験を歴史として後世に語り継がなかったら、ことばにできない経験者のみが知る経験にも付加価値が生まれる。
脳ミソではなく体で覚えたことなら、誰よりも上手に真似できて再現できるのなら、経験に学ぶ愚者というより知者あるいは賢者。経験でしか伝えられないものを残しておくと、歴史から高速学習して経験を無にする相手の対抗手段になり得るから、経験する場そのものが封じられることにもなる。
バナナを食べ過ぎた魚は、穴から出られなくなる。
という経験は、誰もが経験しなくてもいいこと。自然の摂理に反することをバナナを食べ過ぎた魚に例えて表現したと思えば、そんな行為は万人向けじゃないとすぐわかる。多様性を好むのはヒトで、一つを好むのはマシン。というフレーズを引き合いに出せば、みんな一緒でみんなに経験させるのは、一つを好むマシンということになる。
何を排除して何を残すのか。ひとまとまりになっていれば、逐次悩まずに済んで効率も上がる。効率を上げるために、ひとまとまりになれ。ひとまとまりになりやすいよう、世の中の効率そのものを、今はちょっと落としとくから。
という、どこまでもあくまでも一つを好むのは、さてヒトかマシンのどっちになるんでしょ。さらに言えば、マシンのオーダーに唯々諾々と従うヒトを、ヒトと扱うかマシンの一部で部品と取り扱うか。
部品の保有期限なら、生産停止から7年と決まっている。実際には各メーカーによって、もうちょっとバラツキがあるけどさ。マシンの一部で部品なら、補修用の部品は生産停止から7年も経てば、もういらない。
ヒトだったら、部品のように7年経ったからもういらないとは言えないし言えるはずがない。一見ヒトの姿をしているけれど、アレ、本当はマシンの一部で部品なんですわ。といういまだかつて人類が見たこともないブツの取り扱いは、未来においてはどうするんでしょ。
ヒトというより、もはやマシンに近いヒト型マシンでヒューマノイド。いまだかつて人類が見たこともないことになっているから、その取り扱い方も誰も知らない。
大昔前だったら、バベルの塔でもピラミッドでも建てられた。
先祖返りしたかのような格差が本当に現在に存在するんだったら、そういうブツだってすでに存在していてもおかしくないと個人的には思ってるんだけど。
資金と資金で買った頭脳を集中的に投入すれば、理論的にはできるはず。なのにできるはずのことができずに現実にはなっていなかったら、資金はあっても人がついてこなかったってことで、お金では買えないものの方が勝ってるってこと。
脳ミソの中身の出来不出来には倫理がつきもので、倫理がぶっ壊れた高知能や高知性には、世の中の方がついてこないってことかもね。かもかも。
ヒトというより、もはやマシンに近いヒト型マシンでヒューマノイド。今だかつて人類が見たこともないことになってるブツだけど、実はこっそり生産が進んでいて、その取扱いに熟知した者も少数だけど存在してる。という真偽を確かめようもないものは、真面目に取り合うとお金と時間の無駄な消費になって、無駄なお金と時間を消費させたい勢にはもってこい。
無駄金を使う、あるいは使わせるならそういうものに限るやね。
無駄なお金と時間を消費する。そういう場が、お金も時間も無駄にできない場のバッファーになってる限りはさ。上位互換は次々進んで行くけれど、無駄なお金と時間を消費させる場そのものは一向に廃れない。
一向に廃れない事態に焦れた、お金も時間も無駄にできない勢が無駄なお金と時間を消費させる場をぶっ壊すと、バッファーを失って本当にお金も時間も無駄にできなくなって、ただどん詰まるのさ。