クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

持続可能な資源の使いかた

騎手と一体となったサラブレッドが、トップスピードでコーナーを駆け抜ける姿は文句なしに美しい。

 

“早くて美しい”をめざして改良を重ねたサラブレッドのトップスピードについていけるのは、トップスピードでも振り落とされないよう訓練された騎手。だから、常勝馬と乗り手となる騎手は往々にして同じ組み合わせになりがち。

 

勝てない馬に乗った最高の騎手が勝つ、あるいは常勝馬を任された勝てない騎手が勝つといった番狂わせや大逆転は起こりにくいのが、“早くて美しい”をめざしたレースのあり方なんだと思う。

 

“早くて美しい”をめざしたレースで番狂わせが起こるのは、事故。

 

早くないけど、美しい。美しくないけど早い。早くもなければ美しくもないが勝つのはだからみーんなアクシデントで、“早くて美しい”をめざしたレースで勝ち続けることはできない。

 

早さと美しさの両立をめざしたレースは、大体お金がかかる。

 

馬をレースカー、騎手をレーサーに置き換えると、競馬に限らずF1のようなモータースポーツにお金がかかるのも、基本は早さと美しさ(=映像美あるいは鑑賞美)を追求しているからだと思えばわかりやすい。

 

爆発や炎上。クラッシュした車から、あるいは転倒した馬から血まみれあるいは火だるまといった“美しくない映像”を作らせない見せないためにはお金(=開発費用)や安全のためのコストが嵩むからだと思えばいい。

 

“早くて美しい”をめざしたはずなのに、美しくなくていいから早くが求められ、美しくないもののために危険を顧みなくなると歯車が狂って、鑑賞に耐えるものではなくなる。

 

馬または車のスペックが違えば騎手またはレーサーのスペックも違う。チューニングだって違うから、競馬やF1のようなモータースポーツではみんな一緒はありえない。

 

みんな一緒がありえないはずなのにみんな一緒をめざしたとき。レースの意味が変わり、ただ最速だけをめざして改良すればよかった、最速と最も美しいがイコールだった次元から別の次元へと移る。

 

壊れたマシンは作り直せるけど、壊れた生き物、馬も騎手もドライバーも作り直せない。生き物と違ってマシンは悪条件でも可動する。

 

雨や雪あるいは想定外の何かが起こった悪条件のもとでも真価を発揮するのがマシンで乗り物だから、条件が悪いからと可動できないのなら、マシンを使う意味がない。

 

マシンも生き物も、人も馬も資源で資源は有限なんだと誰の目にも明らかになったとき。マシンは無人運転をめざし、人はマシンから降りて、アドレナリン大放出に代わるものとしてeスポーツやトライアスロン、またはトレイルランニングあたりに向かうのは、進化の方向として正しい。

 

進化の先が無人でそこに人は要らないのなら、人はマシンから降りて肉体を酷使する方へと向かい、生身の身体を鍛える方向に向かうのはだから退化ではなく進化の正しい姿なんだと思う。

 

一見すると資源の無駄使いや使い捨てを繰り返しているようにしか見えなくても、実は使い回している。そういう資源の使い方を心得ていると続き、心得のないところは潰えていく。それだけのことかも。かもかも。