見下せる、あるいは侮れるとなった途端にスリスリ寄ってくるなんて、フツーに考えなくてもイヤな奴。
昭和の時代の立志伝中な人物の中には、左から右へと立ち位置を変え、立ち位置を変えて成功した人が時々いる。評伝のなかでは「運動に挫折し」あるいは「運動に限界を感じ」みたいな感じでサラッときれいにまとめられている。
サラッときれいな言葉に置き換えて、納得しやすくしたものを敢えて別の表現で言い換えるとアレは、前進求めて活動中、必然的に生まれた進歩の犠牲を鼻先にぶら下げられ続けると鬱陶しくてしようがないから路線変更した。に、なるんだと思ってる。
鬱陶しくてしょうがないに加え、鬱陶しいものを背負い続けるには先立つものが必要で、先立つものを求めて路線変更した人は最初から目的意識がはっきりしてるから、成功もしやすい。つまり、成功しやすいルートへと自然に導かれるわけで、そういう人物は最初から目を付けられている。
新しいことをやっている、あるいは新しいものから好かれる人は、大体古いものからは毛嫌いされる。
毛嫌いしているから、新しいものを毛嫌いして目の敵にする方には新しいものもやってこない。そのままでは新しいものはやってこないから、新しいものからは常に選ばれずにソッポ向かれる方は、これと目を付けた人材の前に進歩の犠牲をぶら下げて、路線変更させて転向させるとお望みのものが手に入る。
ごく少数の実権を握る人を頂点に多数のこき使われる者がいて、待遇もピンキリ。ピンキリだから、実権を握る頂点の方により多くの利益が集まるという構造は、絶対王政や封建制をイメージするとよりわかりやすい。
絶対王政や封建制は、全然新しくなく、ただ古い。古いから、新しいものはより民主的な方へと寄っていき、民主的な方へと寄っていく新しいものを無理に古いものに寄せていくのは、新しくないもの。
多数のこき使われる、待遇も悪い者が減っていくほどに、絶対王政や封建制のような非民主的なシステムは持続不可能に近づいていき、持続不可能で破綻が近いとみるや近寄ってくるのは、屍肉をついばむ類。
鬱陶しいものを背負い続けるには先立つものが必要で、先立つものを求めて路線変更した人は最初から目的意識もはっきりしてる。屍肉でも、何にもないよりはるかにまし。という目的意識がくっきりはっきりしたものに目を付けられたあとは、さてどう対処するんすかね。
見下せると侮った。進歩の犠牲を鼻先にぶら下げ、手の内にしてしまえば何とかなると見誤った。なのに、ぜーんぜんどうにもならずにむしろ食われそう。
というものは、これ以上ないほど面白い見世物。
万物すべてを学習対象にしている。そういうものがおよそおベンキョーとはかけ離れた界隈に興味を持った時は、フツーの人が見てないものを見て探してる。
万物すべてを学習対象にしてるんだけど、最終的な目的は最初から最後までたったひとつ。という目的がそもそもわかんなかったら、きっと騙される。