鳴かぬなら、鳴くまで待とうと言った(らしい)気長―な人が、最終的には超長期かつ繁栄した政権を築いてた。
鳴かない鳥を殺そうと言った(らしい)人や、鳴かぬなら鳴かせてみようと言った(らしい)人は、結局は待てなかった。いつまでも待てる、環境を整えられたらそりゃ気長にもなって、考える時間もたっぷりあるから、長期安定プランだってじっくり練れる。
スーパーエリートには反感しか抱かない人であっても、スーパーエリートがマイノリティ属性を帯びた途端になぜか好感度も急上昇。
スーパーエリートをマイノリティ寄りにするために、ありとあらゆる手段を使ってマイノリティに寄せていく。そういう手練手管を見せつけられると、マイノリティへの同情も薄れがち。薄れたマイノリティへの関心を再度盛り上げるためには起爆剤が必要で、起爆剤だから、属性がますますスーパーになっていく。
という目で、マイノリティの顔となったスーパーエリートを見てる。マイノリティの顔となるスーパーエリートの属性が、拍車がかかってスーパーになっていくのなら、焦ってる。焦ってるから、鳴かない鳥をどうにかして鳴かせるかのごとく、作為的になっていく。
芝居がかるほどにより嘘くさくなっていき、嘘くさいから鳴かない鳥はいつまでも鳴かないまま。
“らしく”あろうとすれば、ソレっぽい振る舞いに努めてソレっぽくあろうと演技する。
本物は、何といっても本物だから“らしさ”なんてカンケーなく、こだわりもない。こだわりなく自由に振る舞うから、時に“らしく”見えないこともある。
ソレっぽいふるまいに、どこまでもあくまでもこだわるのなら、ただソレっぽさを追求してるだけ。本物は、“らしく”やソレっぽいと言われ続けることにうーんざりして、とっくに“らしく”もソレっぽいも捨ててるさ。
未来は一体どうなるの?特に景気方面は???という不安に応えるように世に出てくるものなんて、すべからく占いやまじないの類だと思ってた。
さて、どれくらい占いやまじないが外れているのか見てみましょ。というちょっと意地悪な気分で手に取った、そろそろひと昔は前になろうかというその種の本を手に取って、占いやまじないの類だという認識は改めた。これは、僕・私が現時点で考えた、最強の事業計画書って奴かもしれないと。占いやまじないの類でしかないものもあるけどさ。
最初にプランを練っておけば、あとはプランが実現しやすい時と場所を選んで実行するだけ。AがダメでもBあるいはCにDと複数のプランを用意しておいて、順番にはこだわらない。
という小規模なプランを、時と場所に応じて適時投下していくようにすると、途中で途切れたとしても最終的には最初期にプランを考えた人の思い通り。プレイヤーが変わっても、プレイする場所さえ変わっても、より実現に近くなって現実化する。
思いつきなんかでやってない。プレイヤーにもプレイする場所にもこだわってない。超長期にわたる計画に、思いつきで横槍を入れたところで、相手に新しいプランを考える時間を与えるだけ。
横槍にどれほどインパクトがあろうと、実現させる、現実化させることを第一に考えて練られたプランは、プレイヤーとプレイする場所を変えながら着々と現実になっていく。