クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

シンプルに考える

カジュアルな質問にはたいていカジュアル、つまりお気楽な答えが返ってくる。

 

日本の文化や伝統、あるいは習慣といったものに疎い相手から“お盆って何?”と、例えばカレンダーでも見ながら聞かれた時。1分で返答しようと思ったら、「亡き人、特に先祖を偲ぶ期間」だと個人的には答える。

 

お供えをしたり、お墓参りに行ったり。その種の行為はお亡くなりになった個人を偲ぶために行うセレモニーで、みんなで一斉に同じセレモニーを同じ時期に行うと、そこに市場が生まれてセレモニー関係のグッズも充実して形式的になる。

 

みんなで一斉に同じセレモニーを同じ時期に行うのは、みんなが同じタイムスケジュールで動いていた名残。プラス、新暦で考えたら真夏の暑っい盛りに真面目に働いてられるかという、季節要因も絡んでお盆休みが定着したんじゃないかと、これも個人的な憶測。

 

みんなが同じタイムスケジュールで動いていたら、行事が集中する時期は稼ぎ時。特に、みんなと同じタイムスケジュールで動けない側にとっては。

 

各々のタイムスケジュールが分散して、繁忙期は外すという行動様式を取る個人が増えると、セレモニーとして過剰だった部分が剥がれ落ちて、本来の目的により近くなっていく。

 

本来の目的はすでに薄れているのに、セレモニーに関連した市場だけが過剰に盛り上がっていると、セレモニーではなく本来の目的を大事にする側は離れていく。あるいは冷めていく。

 

今年はお化けもカボチャも控えめなデコレーションで、本来の目的>過剰なセレモニー状態に近付くと、セレモニーに関連したどの市場がもっとも小さくなりやすいのかもよくわかる。

 

いざという時にはもっとも小さくなる。

 

つまりもっとも不安定な立ち位置なら、その立場を担うのは、足場がしっかりして安定していて、ここがダメなら別の場所という相手に限る。いざという時にはもっとも小さくなるから、消えてなくなってしまえばいいものから順番に担わせましょだと、イヤーな感じが先立って、イヤな―感じが先立つものからは、やっぱり速やかに人は離れていく。

 

伝統を過剰に大事にする側から時に垣間見えるイヤーな感じは多分この、不安定な立ち位置を敢えて不安定なものに担わせる残酷さ由来なんだと、これも個人的には勝手に思ってる。

 

残酷で、余計なものをバッサリ削ぎ落しているから時にものすごーくキレイなものも生まれてくるけれど。そもそも残酷さ由来だから、どう考えてもまぁ楽しくはないというものも生まれてくるもんさ。