クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

温故知新

新しくなった。便利に、あるいは良くなった。そう聞いても新しいとも便利とも良いとも感じない古いものは、古いものを頼る。

 

という構図があると、古いもののなかに新しいものが紛れ込むようになって、新しいはずのものが古いものに取り込まれたり、あるいは古いはずのものが新しいものに取り込まれたりして、境界がぼやける。

 

その結果、新しくする前には想像もしなかった、想定とは似ても似つかぬものが出来上がってくるのかも。かもかも。

 

正式な結婚はしていない(=籍は入れてない)けれど、パートナーとして公認・周知されている。主に悪だくみの場ではホステス(あるいはホスト)としておもてなし役を務め、表には出ない形で後始末も含めて何かと世話や面倒をみる。

 

という好悪が分かれそうで毀誉褒貶ありそうな人物を肯定的に描くなら、描いた側はその種の人物を肯定している。

 

常識も道徳も、時には変わる。

 

そもそも好悪が分かれそうで賛否両論ありそうな、ひと癖ある人物の描かれ方が変わった時、常識や道徳が動いて変わったんだと、すぐわかる。

 

だから常識や道徳の揺らぎは、ひと癖ある人物を時代がどう扱うのかを追っていくと、すごくわかりやすくなりそう。

 

全面的または全方位的に肯定できない、毀誉褒貶ある人物を最初から登場させるのならむしろ親切。

 

例えば自身の欲望のために弱者を道具に使う、聖人でも聖者でもない油断ならない人物の存在をあらかじめ知っているのと知らないのとでは、世の中の捉え方が違う。

 

全面的に肯定できる、模範となる人物しか登場しない虚構の世界は、油断ならない人物と出会うこともない別世界。

 

だから現実世界で、目的のためには手段を選ばない、油断ならない人物と対峙した時には警戒することもないから、美味しく頂かれてしまう。

 

要するにバランスの問題で、“好きだから“”よく食べるから“という理由で、甘いものばっかりや塩気の強いものばかり与えていると、著しくバランスの悪い何かが出来上がる。

 

好きなものばかり。欲しがりそうなものばかり与えるのは、そもそも著しく偏った、バランスの悪い何かを手に入れたいから。という警戒心とともに取捨選択して、美味しいとこどりをするならむしろバランス感覚に優れていて、強かな相手と対峙するための生きる知恵かも。かもかも。