ピョートル大帝といえばちょっと変わった、ロシアの近代化めざして改革を進め、近代化に成功した人物として知られてる。
彼は、外国にやっても修道院に入れても守旧派に利用される恐れのあった自分の息子を墓場に送った。つまり、処刑しちゃったんだとか。
後継者を自ら処分するなんて。
この時代の近代化といえばヨーロッパ化で、近代化めざして近代化に成功しても、やってることは野蛮で残酷。野蛮で残酷であろうとそれがどうしたで、息子よりも、近代化あるいは近代化をめざした改革の方がずっーと大事。と、野蛮で残酷な手段を敢えて選びながら、昔には戻らないと内外に知らしめたんだから、やっぱり変わってる。
息子を殺してでも改革をとったという大義は、改革を進めるのにお役立ちで、守旧派を一掃するのにもなお一層お役立ち。
事実その後のロシアは、いわゆるヨーロッパの大国で先進国とはまた別の大国へと進化していく。
右向け左で後ろ向いて、左向け右で正面向いてあっかんべー😝と舌を出すような人物は、何言ったって素直に言うことなんて聞きゃしないから、放っておいても大丈夫。ところが品行方正で素直で真面目だと、担ぐために口先達者でたぶらかす術に長けた相手の術中に落ちるとひとたまりもない。
親が多大なる犠牲を払って進めた改革を、その子供をシンボルに立てて改革を逆行する便利な道具に使われたらたまんない。
歴史上に“大帝”として名を残すような人物のここぞという時の判断は、やっぱり常人の理解を超えている。
この、改革という“新しいもの”をとって息子もろとも“古いもの”と決別したという故事は、都合よく剽窃するのにピッタリで、色々とバリエーションが考えられる。
ぜーんぜんまったく新しいものでも何でもないんだけど。“新しいもの”を標榜して本当はそっちの方が新しいものを“古いもの“として断罪する。
あるいは、肉親への愛情よりも改革に対する情熱を優先させることで、フツーの人じゃない超人アピールに役立てるとか。
古いものに通じている人は時として、古いものを盲目的に信仰しているから古いものに通じているわけじゃない。現代でも使えそうなものはないかと、まず利用ありきという邪心とともに古いものに通じようとする時もある。
純粋な興味よりも邪心や邪念に勝っていることが明らかな相手を前にした時、何をどう伝えていくのか。
オーラルヒストリーは、場合によってはその場限りで、その場限りだから伝えたいことを伝えたい相手にだけ伝えられる。だから、何をどう伝えていけばいいのか迷いが生まれるような時には見直されるのかも。
その場限りだからと見くびって、噓八百を並び立てる。そういう輩が目立つようになるとまた別の揺り戻しが起こって、限られた少数以外の人に知ってもらっても全然構わないことは構わないこととして、広く知らしめる手段が見直される。何をどう伝えていくのを担う場は、常にその繰り返しなのかも。