クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

偏愛

常識の内側にいる、当たり前の人間の想像力なんてたかが知れている。

 

たかが知れているから、常識の内側にいる当たり前の人間の想像力を試したところで、すぐに尽きる。だから圧倒的な想像力、イマジネーションやクリエイティビティを枯れることなくコンスタントに発揮し続けるには、当たり前の境遇には居ない方が発揮しやすいという理屈も成り立つけれど。

 

だからといって、イマジネーションやクリエイティビティのためだけに生きてるわけじゃないから、想像力が尽きたところで大抵の人にとっては無問題。当たり前の暮らしを享受しているだけでは、圧倒的なクリエイティビティは発揮できないから、当たり前の暮らしを捨てて、常識の外に出ろと迫られる方が問題。

 

なんでやねん。

 

という素朴な疑問は、どっぷり中の人になってしまうと生まれにくくなる。気付いていても、声には出せなくなる。

 

何でそんなことしなきゃいけないのさ???という素朴な疑問をいつまでたっても素朴に表現できるのは、そもそも鍛えられてる方。理屈に合わず整合性もないことを納得させるのに、いっちゃん骨が折れるのは、どこのエリア住みか。全国くまなく滞在したことのある人なら、きっと知っている。

 

電子書籍リーダーはやっぱり便利で重宝するけれど、紙の本じゃないとわからないこともある。

 

字、でっか。

 

紙の本を手に取った時の第一印象が、見慣れたものより字が大きく行間にも余裕がある、つまりスカスカだと、最初からスカスカな情報を求めている人向けだとすぐにわかる。四六時中気を使ってるような時には、スカスカでちょうどいいんだけどさ。

 

唯一無二のものなんて滅多にないから、大抵のテーマは何かの焼き直し。スッカスカになった情報も、最初はもうちょっとぎっしり詰まってたのかも。

 

何を省いて、何を足したのか。

 

字が大きくて行間もスッカスカなのは、読みやすさに配慮してそうなったのか。それとも伝えるべき情報を敢えて伝えないことにしたのかで、まったく印象が変わる。

 

細かい数字はなくてもいいからカット。その代わり、いつもお世話になってるあるいは実際に金銭の授受のある方への配慮は欠かさずに。例えばそんな具合に、最初の情報から何を足し算して何を引き算したのかで、偏向や偏愛の傾向もよりくっきりはっきりする。

 

そもそも偏愛を明らかにすることにためらいも躊躇もないと、偏愛や偏向がまず先に顔を出す。博愛の表出に慣れていると、偏愛や偏向の表出にも敏感になり、偏愛や偏向が過ぎるものとは距離を置く。つまり、博愛とは距離を置かせたいからの偏愛や偏向の表出なのか??という疑問だって生まれてくる。

 

何でやねん。あるいは、何ですのこれ?といった素朴な感覚は、そもそも役割を演じることに慣れきっていると、簡単に麻痺してたちまち底を尽くのかも。