クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

水先案内人

ものすごくインパクトのある、それまでの常識がひっくり返るようなラディカルな主張が形式を整えて、どこからも文句の出ない形で主張されるようになると、ホラーの始まり。

 

怖いのは、形式主義という高い高いハードルをすでに超え、形式で守られた内部にまで侵入しているから。形式で守られた内部への侵入をすでに果たしていたら、形式だけ、形だけ精査できても意味はない。

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしやうらぶれて異土のかたゐとなるとても

帰るところにあるまじや

 

とつぶやきながら、最後は遠きみやこにかへらばやというフレーズで締めくくられていると、つぶやいている本人はふるさとに居るのかそれともみやこに居るのか。一見するとすごくわかりにくい。

 

ふるさとへの郷愁をうたっているのか。それとも遠いみやこに帰りたいんだから、その真逆なのか。そこもわかりにくくて複雑。

 

この種の複雑な心境は、現代だったらよりよい生活を求めて故郷を出た、出ざるを得なかった越境者に聞くと、かつてなら思いもつかなった視点を与えてくれるかも。

 

人口減少が大問題となった現代では、すっかり忘れ去られてるけどさ。食わせるに困ったあげく、それ、どう考えても体のいい棄民じゃんという事業は、この国にだって過去に何度もあったのさ。困ったら、捨ててきた。そう理解してる。

 

懐かしいと感じる人が居て、懐かしいと感じる風景や何かがあるから恋しく思うのがふるさと。

 

例えば今だったら紅葉がきれいだろうなとか、紅葉がきれいな季節には美味しくなるあれやこれ。季節や味覚。一緒に楽しんだ人が居ればなおさら、その人たち込みで今はもうない、あるいは今は戻れない景色や何かを思って悲しくなるもの。

 

懐かしくなるような思い出は何一つ持たず、単に生を受けただけの場所にすってんてんの状態で戻ってきた時に人は何を思うのか。すってんてんで戻ってきた人を常に、温かく受け入れてくれる場所だったら、いつまでたっても懐かしくもなるもんだけどさ。

 

懐かしいと感じる人も風景も、何もかも失われた場所は、もうふるさとでも何でもない、単に生を受けただけの場所。ついでに生を受けただけの場所なんだけど、地理や来歴には明るいから、土地に不案内な人向けの事業では水先案内人にもなれる。

 

懐かしさに繋がる美しい思い出もよき思い出も。なーんにも持たない人が異土から来た人の水先案内人となって新しく作り始めた何かは、過去の地理や来歴からは完全に切り離されたものになるかもしれない。だっていい思い出も思い入れもなーんもないんだから、破壊や改造にも躊躇がない。

 

その種の破壊や改造の果てに生まれるのが、土地の人が見たこともなければ行ったこともない、新しい名物や名所。

 

遠く離れていても、いつまでたっても懐かしい原風景を持たない人に、単に生を受けただけの場所の改造を任せると往々にして破壊先行。

 

だから、離れたあともいつまでも懐かしくて恋しい何かを持たない人は常にフロンティアに置いておく方がよくて、送り込まれたフロンティアで懐かしくなるような何かを獲得した人から、フロンティア開拓団からは脱落していく。そう設計すると、異土のかたゐも生まれなくなる。

 

響きはロマンチックなんだけどさ。

 

よーく聞いたら、ロマンの欠片もないこと言ってるしやってるじゃん。ということを行う際には、ロマンの衣を纏わせると騙されやすい人ホイホイになるから、対抗する方もロマンの衣を纏うようになって、互いに感情に訴える、感情掻き乱し系に偏りがち。

 

理性的に考えられる状況を奪い、理性を奪った後で感情に訴えて感情を揺さぶるとより効果的。

 

にもかかわらずちっとも効果がなかったら、武器として使った理性も感情も役立たずだったという何よりの証拠で、お払い箱にしても誰からもどこからも文句は出ないさ。