クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

鬼は外で福は内

四月になって暖かくなり、スプリングエフェメラルの片鱗がちょびっと見られるにも関わらず、季節感のないタイトルをつけてみる。

 

祇園八坂神社から駅の方で鴨川が流れてる方を眺めた時の左側、通りを挟んだちょうど対面のあたりには昔、八百文というレトロなフルーツパーラーがあった。

 

平成が始まってすぐの頃にはまだあったはず。その後は、周囲の環境に配慮して自己主張を抑え気味にした店舗デザインのコンビニができて、その後はどうなったか知らね。すぐ近くのバス停の背後、通りからはちょっと引っ込んだ場所には学校があり、どうやら廃校になった後はミュージアムになっているらしい。

 

目に見える街の景色もずいぶん変わったけれど、その間にもっとも変わったのはきっと地面のお値段。八百文があった頃やそれ以前には、その周辺で働き暮らしていた人向けの暮らしもあったはずだけど、学校が消えたということは暮らしも消えたっていうこと。

 

懐かしいという感情は、懐かしさを共有してるから生まれるもの。

 

同じ時代、同じ場所に生きていても懐かしいと思うものが一緒とは限らない。しょっちゅう眺めていたものが実際に歩ける場所ではなかったら、懐かしいと思う対象もすれ違う。

 

かつての生活の集合体みたいな場所がポッカリ空白になって、空白になった跡地が細切れになるよりは、まとまった形で何か別のものになった方が昔もしのびやすい。歴史というほど御大層でもない来歴は、御大層ではないかわりに等身大で、等身大だからありのままが詰まってる。

 

祇園八坂神社から徒歩圏内は、昔も今も観光客が押し寄せる、超メジャーな観光スポットがめったやたらとあるエリアだから、観光地の目立つ場所に建つ個人宅はそりゃもう立派な大豪邸で、大豪邸しかなかった。

 

明治の元勲や財閥の流れを汲む、あるいは一代で財をなした人や成功者のお宅しかないようなエリアにあった大豪邸ともなると生活の匂いが希薄で、そもそも人が住んでるのか否かもわかりにくかった。そんな中の一軒には個人や法人含めて幾つも、下手すりゃ10くらいの表札が掛かっているお宅もあって、相続で揉めてますという看板ぶら下げていた。

 

どう考えても今後値上がりしかしそうにないまとまった土地を、個人で所有してたら揉め事にしかならない、いい見本だった。かといって、どういう形でならそもそもの豪邸所有者の希望が叶ったのか。死んだ後のことなんて知らねーだったら、それはそれでいいんだけどさ。

 

揉め事に決着がつかないと、決着がつくまで来歴にも係争中の来歴が刻まれ続けるだけ。

 

親類縁者がそれぞれに相続権を主張して譲らないから係争が長引くのなら、親類縁者は居ない方がいい。居ない方がいいけれど、そもそも存在するものを無きものにするのは無理だから、存在する限りファミリーツリーは育つばかりでキリがない。

 

キリがつかないファミリーツリーは、だから枯れるまで待つか切られてしまう。どちらにしても待てる人限定で、待てない人が切る。

 

今も昔も世界で最もよく読まれるベストセラーといえば、聖書の類だと思ってる。読むに限らず見るでもいいんだけどさ。読む読まない、見る見ないに限らず信者は勝手についてくる。お金、無くなりました~で終わりにするわけにはいかない事業を抱えていたら、必ず一定の需要が見込める信者ビジネスに寄っていくようになってるんだと、これもまた勝手に思ってる。

 

一定の需要は見込めて収益は出るんだけど、その収益は終わりにするわけにはいかない事業のために使うものだから、個人がその収益に対して所有権を主張することはない。

 

養成コースなんて知らんがなで、勝手に育って大きくなったのなら別だけどさ。終わりにするためにはいかない事業のために、わざわざ時間とお金をかけて鍛えて売り出した個人だったら、“個人の才覚“は認めようがない。個人じゃなくて、単なる偶像だから。偶像に、権利はない。権利はないから、すべてを終わりにするわけにはいかない事業のために使える。

 

鬼は外で福は内が、言い得て妙だと思うのはそんな時。

 

簡単に作れる鬼には稼げるだけ稼いでもらい、その収益である福は内輪のもので内輪で使うから福は内。鬼、悲しいね。悲しいから、鬼の権利を代わりに主張してくれる誰かが見つかるまで鬼は鬼のまま。

 

悲しい損な役回りだから、鬼の権利を代わりに主張する親類縁者はいらないのが福をぶんどる福は内側の理屈。その理屈でいくと、鬼は親類縁者がそもそも居ないものから選んでおくと、終わりにするわけにはいかない事業側にとって万事都合がいい。

 

終わりにするわけにはいかない事業の恩恵は、ありがたいばかりじゃないから鬼は外で福は内のカラクリを知ると、勝手に人が離れて新陳代謝も進む。新陳代謝が進んで、ビジネス色がくっきりはっきりするまで待つのは待てる人のお仕事で、それもはや単なるビジネスでしょ?と言われないように、終わりにするわけにはいかない事業を抱えてる側は、次から次へと新しい理由を探してくるのさ。

 

あるいは、ビジネス色がくっきりはっきりしたものは本体の終わりにするわけにはいかない事業とは切り離し、また新たな器で同じことを始めるだけさ。

 

いつまでたってもビジネスにはならないから本体とは切り離せず、人も離れないから新陳代謝も進まないものは、そのままでありのまま。