何かにつけて張り合う、ライバル同士な二強国の成果は断トツでぶっちぎり。
ライバルに対する対抗意識や覇権への欲が、成果を生む源なんだとよくわかる。断トツぶっちぎりで成果をあげる二国を見ていて思うのは、どれくらい(何代前から)その国の人なんだろうということ。
父母、あるいは祖父母の代まで遡れば他国人という、ニューカマーが成果の原動力なんだというケースは意外に多く、才能の青田買い網を全世界に広く薄く広げていたら、才能を集めるのもいとやすし。
国がかりで養成あるいは育成されたものが従順なのは、結局のところは国。
まだ普及段階にある新興競技では、同じ新興競技の普及に努める者同士仲良しこよしの面ばかり強調されて、国家の対抗意識なんて微塵も感じられなくて、ウィーアーザワールドでウィーアーザチルドレン。
普及の段階が終わり、成果が求められる工業製品化あるいは産業の段階に入ると、仲良しこよしではいられず競合となって、国家の対抗意識が目立つようになる。
スポーツでも何でも。でっかいピラミッドの頂点に立つ成功者が、しばしばチャリティーに熱心になるのは、勝ったり成果を上げた時に目に入るのは、新興だった同じ何かの普及に努めた人達から、単純に喜んで応援してくれる人達へと変わっていくからだと勝手に思ってる。
ただ勝つのが嬉しい。成果を上げるのが楽しいというシンプルな原点に戻れるのは、勝ったり成果を上げたりするのが単純に楽しい時。
感情はお金では買えない。お金で買えるのは演技。だから、がんばってる振りならいくらでもお金で買えるけれど、がんばろう・成果を上げようという意欲は、お金では買えない。
すでに普及の段階は終わり、成果を求め続けられる産業になると、応援してくれる人達の期待に応えて成果をあげるのが、単純かつシンプルな解となる。
産業になると、誰のためや何のために頑張るのかが、単線ではなく複線となって分かりづらくなる。がんばろう・成果を上げようという意欲よりも、がんばってる振りが上手になるのはそういう時。
養成や育成で培った何かは、がんばろうという意欲が勝手にわいてくる場所のためのもの。がんばってる振りが上手になるばかりな場所のためのものじゃない。
みんな一緒で仲良しこよしの普及段階から、産業となって激しく相争えるうちは、まだ才能の青田買いができるフロンティアが残されている。
フロンティアの消滅とともに激しく争う意義も失われ、産業と普及が混然一体となった、また別のあり方に変わる。産業規模がシュリンクしていくから、普及の占める割合が大きくなっていく。
そういう変化についていけない産業はシュリンクするばかりで、才能の青田買いができるフロンティアやフロンティアへの足掛かりの消滅とともに、消えていくんだろう。