クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

物は考えよう

レコードがCDになってCDがストリーミングになるように、何かを楽しむ時の主要なメディアが切り替わるたびに抜け落ちるのは、ビギナー向けの情報。

 

ビギナー向けの情報は、相手がビギナーゆえに嘘やニセ情報を吹き込むのも簡単で、簡単だから嘘やニセ情報でも広告として使える。

 

本当はそんなもの、この世には存在しないし今だかつて存在したこともない。

 

その種のものを嘘やニセ情報の中に混ぜ、さも実際に存在するかのようにリテラシー低めの層を狙って広告し、本当だと思い込んだ人の数や問い合わせが増えて採算ラインを超えたら本当にする。

 

損も在庫も抱える余裕はなし。だけど“メーカー”という看板を掲げている以上は何かを作らなきゃならない。余裕はないから確実に売れるものだけ作りたいし、どうせでっちあげるなら、一つも二つも三つも四つも一緒。

 

という虚実が入り混じると、実態なんて簡単に揺らぐ。

 

実態を揺らがせたい側にとっては大歓迎で、揺るぎない実態しか求めてない側にとっては大迷惑。双方の仲が悪いままだと緊張状態が保て、相互監視にもなるけれど、双方が手を取り合ってお互いを便利に使いだすと馴れ合いの始まり。

 

緊張に耐えられないと馴れ合いになだれ込みやすく、緊張に耐えられないのは競争とは無縁だった方。アラ、“競争のない社会“が往々にして腐りやすく、腐敗しやすい理由がなんとなく感覚的に理解できた気分。

 

桁違いの札束が実弾として飛び交うバブルに沸いた経済戦争に、ビンボーだったから参戦できず、結果として対岸の火事に終わってバブルが弾けたあとも無傷で居られた。という故事や教訓は、実際に無傷で生き延びた側にしか伝わってないもの。

 

スッカラカンやすってんてんに比べたら、ビンボーの方が断然マシ。

 

スッカラカンやすってんてんになってしまったら、よりごのみする余裕なんてないから何でも受け入れるしかなくなる。どうやっても受け入れられないものを受け入れてしまうと、感情なんて速やかに失われ、誰かの命令を聞くだけの意思のない物体が出来上がる。

 

人だったら考えるし、喜怒哀楽という感情の持ち合わせもたっぷりある。

 

考えることも感じることも手放すのは、最後の最後。手放した瞬間から、人間扱いなんてしないしされない。古代文明の昔にならえば、ピラミッドや古墳、あるいは万里の長城だって築けるはずの金銀財宝ザックザクなのに、実際はそうならない現実に苛立ってる。

 

ヒエラルキーの遥か高みに、傲慢な人が実際にいたらそのくらいしそうではあるんだけど。

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ビギナー向け、初心者向けに嘘吹き込む奴は、ろくなもんじゃない。

現実はそうなってるわけでもなく、どっちかっていうと持たざる側にスリスリすり寄ってくるようだと、金の生る木は持たざる側にこそあるんだってことかもね。