クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

手直し

去年は失敗したもの。今年は上手くできて、気分がいい。

 

例年とは違う、斬新な作り方をダメもとで試してみたところ、手間いらずで簡単なのに上手にできた。今までの苦労は何だったんだろう???伝統の継承に重きをおかれてる場所では、ダメ出しされそうな作り方。

 

煮方、焼き方に買い出しと、シングルタスクにつきっきりになれる場所じゃなし。一人で何役もこなさなねばならない、プレイングマネージャーしかいない場所では、斬新な手法が編み出されるものかもね。めちゃお役立ち。

 

面倒を最小にするための発明や進化は、面倒と感じることで発展するもの。そもそも面倒とも思わず当然だと思ってたら、いつまで経っても面倒ごとからは解放されない。

 

面倒ごとを面倒とも思わず手を動かせる人は、面倒とは思わずに遊んでる。

 

気持ちの余裕あるいは時間の余裕、またはその両方。余裕があって、今日は何して遊びましょうかと考えることから一日が始まるような人にとっては、面倒なことも遊びのひとつ。へぇ世の中にはこんなに面倒なこともあるのかという、好奇心発動でしばらくは面倒なことも楽しめるけど、遊んでられるのも余裕のある間だけ。

 

余裕がなくなったら、面倒なことはやっぱり面倒なだけと気付く。

 

長年染みついた習慣で、手を動かすことで乗り切ってきたもの。あるいは修行の一環として、手を抜かないことが尊ばれていた場所には、発展や進化の芽が山盛り隠されてそう。

 

隠すから、面倒なことは面倒なままで温存され、習慣で手を動かせる人や、修行の一環として甘受できる人にとって居心地のいい場所となってきた。なんてこともあるかもしれず、習慣にも修行とも縁のないその他大勢の人にとっては、意味が見出せない行為は現実に合わせてアップデートされる。

 

感性という一見説明の難しいもの。自身では再現出来ても、言語化して他者に伝える術を持たないケースは、まさに手を動かすことで培ってきたようなもの。「ここを、こう」と、ちょっとした手直しで見違えほど見栄えがよくなることがあるけれど、その「ここを、こう」という感性は、案外手直しできる当人には言語化できないもの。

 

つねに言語化する訓練を経てきたケースなら別。

 

一見言語化は難しくとも、細部まで分解して分析することで、「ここは、こう」を具体的な数字に置き換えることは、あるいはもう可能なんじゃないかと勝手に思ってる。バレる、隠せなくなったら、手を動かすことで乗り切ってる人や、修行の一環と甘受してる大勢の人の立場がなくなってしまう。だから、隠し通せる限りは隠すが横行するのかもね。かもかも。

 

今年もあと一日。