クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

食いつきが悪い

好事家向け、つまりマニアックな興味に偏った古い本は、マニアックなだけに一般には知られていないようなことが豊富。一般には知られていないということは、一般には知らせる手段がなかったということでもあって、その鬱憤を晴らすかのように、知らせても構わない場所を見つけたらイッキイキ。

 

商業的な他のどの場所でも見たことがなかったら、どこにも行き場所がなかったということで、出自はきっと商業ベースじゃない。本来なら商業ベースに乗るはずのないものが、商業ベースにひょっこり顔を出すから、同じ場所にあっても生まれも育ちも商業ベースなものとは、趣が著しく異なっている。

 

広く知られるようになることは想定してないけれど、想定外の事態が起こることをかすかに願って流す、ボトルメールやボトルレターのようなもの。とでも思えばいいのかも。

 

英語圏あるいは西洋の記述は異様に詳細で微に入り細にうがっているけれど、日本語というアジア圏の言語に翻訳されているにもかかわらず、アジア圏のこととなるとサッパリあっさりだと、執筆者の興味関心がどのあたりにあったのか、よくわかる。

 

興味や関心があったとしても、そもそも英語や西洋の言語に翻訳されてなかったら、どうしようもない。基本的にマニアックなのに、あっさりサッパリしか記述できないものはそのまんまというのも、ある意味一貫してる。

 

今だったら、英語やその他西洋の言語に精通したアジア圏出身者なんていくらでもいる。だから、西洋の目から見たアジアや東洋ではなく、アジアや東洋から見たアジアや東洋の情報を英語やその他西洋の言語に翻訳して、アジアや東洋史観を記述することができる。

 

その際に情報として重宝されるのは、やっぱり入手が簡単なもの。

 

学術的興味や関心がベースになっていたら、簡単なものから入らない。すでに知ってることの方が多かったら、簡単に手に入るものには簡単に手に入る程度の情報しかないこともわかってる。

 

簡単に入手できるものは拡散も容易で、だから簡単に手に入る情報ばかりが拡散されることになるのかも。

 

好事家向けの本は、例えばネイティブアメリカンについての記述が豊富で、ネイティブアメリカンの歴史については知る人ぞ知るだったことが、逆説的にわかる。かつての知る人ぞ知る歴史について、最近はあまり語る人もいなくなり、今では別の知る人ぞ知る歴史を語ることに熱心だと、ネイティブアメリカンは完全に同化が終わったのかと思ってしまう。

 

知られざる歴史を語ることは異化を語ることと同義でもあるから、知られざる歴史を語れば語るほど、同化からは遠くなる。異化を選ばず知られざる歴史も語らずを選べば、同化は進む。

 

同化が進むほどに、わざわざ語りたくなるような目に遭わされることもなくなる仕様にしておくと、同化にも加速がかかる。

 

知る人ぞ知る歴史を語りたい、異化を語りたいニューカマーが列を作って待っている。多文化で構成された社会では、異化と同化を使い分けながら、ひとつになっていく。

 

そう考えると、自分にとってホットな話題以外には食いつかない、個人主義に収斂していくのかも。世間を大事にしたところで、その世間が大事にしていたり問題にしているものは、自分や自分に連なるものにとってホットではなかったら、食いつく意味も薄れていく。