クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

傑出した才能が自らを滅ぼしていく『完全なるチェックメイト』見た

チェスシーンで退屈するかもと、大きなスクリーンで見るのは敬遠したけれど、チェスシーンこそ真剣勝負でもっとも見応えがあった。

 たかがチェスとはいえ、東西冷戦時代の1970年代、直接ドンパチやるわけにはいかなかった米ソ間の、威信をかけた代理戦争みたいなもの。だから、たかがチェスとはいえ緊迫感満点なんだ。

 

現在でもチェス史上最高の一戦(と言われているらしい)である、アメリカ人ボビー・フィッシャーと世界王者であるソ連のボリス・スパスキーの対決がメイン。

 

チェスは知らなくても、ボビー・フィッシャーの名前なら知っていた。ってかボビー・フィッシャーしか知らん。さほど将棋に詳しくなくても羽生さんなら知ってる、という現象に似てるかも。

 

羽生さんはチェスもプレイしたり、不世出の強さで門外漢にもその名を知られているけど、ボビー・フィッシャーは奇行で知られた人。映画では、いろいろと謎の多い人物の前半生にスポットをあて、チェスプレイヤーとしての傑出した才能と、才能に身を焼かれるまでが描かれる。

 

ボビーは、師を持たずに独力で強くなった人。師を持たず、ただプレイヤーとしてのレベル上げにだけ集中していたから、なるべくしてとっても強くなった人。

 

そりゃこんな幼年時代を過ごして、何らかのタイトル獲らんかったら嘘やろう。。というのがちびっこから青年期にかけてのボビーの生活。

 

大人に混じって大人顔負けのプレイで大人を凌駕してきたボビーには、チェスに強くない大人の言うことは聞くに値しないかのようで、往々にして傲岸で鼻持ちならない。

 

ボビーが鼻持ちならなくて傲岸だから、結局親身になってくれる人や味方になってくれる人を得られず、彼はますます攻撃的になっていく。ごく少数の人以外、みんな敵状態。

 

プレイヤーとしては順調に成長を重ねていくけれど、家庭環境が特殊で家族による庇護も希薄だったせいか、精神のバランスを欠いたまま大人になっていく。

 

四六時中チェスのことしか考えてなかったことを示すエピソードとして、チェス盤に向かってない時でも、口頭で次の一手を指している。「キング→ルーク3」のように、しりとりみたいに常に次の一手を考えていて、もはや次の一手を考えることそのものが、息抜きになってるかのよう。

 

練習量が半端ない。

 

練習量が半端ないプレイヤーで思い出すのは『3月のライオン』の桐山零。彼も練習量が半端ないプレイヤーだけど、ややコミュ障気味とはいえ常識や礼儀はちゃんと身に着けている。フィクションの人物とノンフィクションの人物を比べるのもアレだけど、その違いはやっぱり環境で、零には師もいれば、家族には先立たれたとはいえ疑似家族的な温もりに囲まれてる。

 

競技に専念できる環境は、傑出したプレイヤーとなるためにはあった方がいいけれど、だからといって人としての人格も育まれ、逆境でも取り乱さない強さを作るのかは疑問。

 

ボビーを見ていると、プレイヤーとして強くなるたびに、人格の成長に必要な何かが剥がれ落ちていくようで、不憫。ただもうひたすら不憫になってくる。

 

ただでさえ人格にもろいところがあるのに、そこに米ソ代理戦争としての世界王者戦が、彼の精神をさらに不安定にする。

 

精神のバランスを欠いている時に、もっともやってはいけないことが、ごく少数に向けた“極端に偏った意見に耳を傾ける”こと。

 

精神が不安定気味なのに、あやしいユダヤ陰謀論的な、あやしい教義を説くヘンなもんを四六時中聞いちゃってるから、 ボビーはますますおかしな人になっていく。

 

その危うさに気づいているのも、少数の人だけ。気づいてはいても、どうしようもない。

 

ボビーが耳を傾ける可能性があるのは自分を負かす人だけ。対戦相手であるスパスキーしか、同時代には存在しなかったことが、ボビーの不幸に拍車をかける。

 

奨励会に所属する人たちは、時に敵になることもあるけれど、同時代に同じ将棋というツールを使って会話できる友でもある。でも、チェスの世界には奨励会的なものもなければ、同じチェスというツールを使って会話できる同レベルの人は、鉄のカーテンの向こうにしかいない。

 

ボビーとスパスキー。同じく国家を背負わされたプレイヤー同士だけど、スパスキーは国家の庇護に分厚くくるまれている。ボディガード多数でメディアの盾にもなってくれそうで、静かに物を考えられる贅沢なホテルも用意してくれる。

 

結局当時のソ連は人材こそが宝で国家の最大の売り物であったから、傑出した才能持ちには手厚い庇護があったんだとわかる。

 

ソ連がモノづくりの匠の国だとは、寡聞にして聞いたことがない。ソ連崩壊後も、ソ連製のナントカがないから、とある業界が困ってるなんて話も聞いたことがない。

 

それに対してアメリカは産業の国だから、傑出した才能の持ち主でも、国家の威信をかけて代理戦争に狩り出されても、ガンバレヨ!と電話が来るくらい。プレッシャーだけかけにくる。作中のボビーは、スパスキーに比べて自身の待遇の悪さを嘆くけど、ボビーが頼るべきはほんとは国家ではなく“産業界”だったのよね。

 

不幸なことにボビーの生い立ちがまた、彼自身にはどうしようもない枷となって、産業界の支援もあてにできない状態だったんだけど。

 

傑出した才能をバックアップする環境を得られなかったから、ボビーの精神は崩壊に向かう。ボビーにはどうしようもないのに勝手に背負わされた先天的なものと、後天的なボビーの度し難い性格が混じりあって、もうほんとにどうしようもないほど「ヘンな人」が出来上がってしまった。作中でも「ヘンな人」のエピソードがてんこもり。

 

ガンバレヨ!で勝手に背負わされた国家の威信が、どれほど人の精神を狂わすものなのか。

 

冷静沈着なスパスキーでさえ、時に取り乱し、たかがチェスとはいえ、途轍もない重圧のかかった試合だったから、世紀の一戦となったのかと思った。少なくとも現代では、再現不可能な重圧だから。

 

21世紀になったとはいえ、オリンピック(あるいは代表戦か?)で負けたら檻に入れられる国も世界にはあるらしくて、バカらしい。傑出したプレイヤーは、競技の上達以外は考えなくてもいい環境をめざすべし。

 

たかがチェスが、たかがで終らなかった時代の不幸が世紀の一戦を生んだのなら、もう二度と世紀の一戦なんて生まれなくてもよし。見たいのは、もっと清々しいもの。

 

そう思うほど、勝手に託され、勝手に背負ってしまい、二度と平穏な暮らしには戻れなかったボビーが痛々しい。

 

チェス盤が刻まれた公園のテーブルで、無心にチェスで遊んでいた時代がもっとも幸福そうに見える不世出のプレイヤーは、もう彼で終わりにしようと人々の記憶に刻むために作られた映画。そう思ってもいいくらい。

 

プレイヤーとして強くなるたびに、人としての平穏な生活から一歩遠くなった。精神のバランスを欠きながら、それでも必死で次の一手を考え抜いた人の、人生のハイライトシーンを切り取った映画。痛ましい姿が、記憶に刻まれることもある。

 

 無観客試合といっていい将棋の名人戦は、プレイヤーを守るためでもあったんだね。

 

今週のお題「映画の夏」

 

お休みなさーい。

 

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狸寄席というものに、初めて行ってきた

先月、『狸寄席』というものが狸小路商店街の札幌プラザ2・5であったので行ってきた。落語・漫才・講談ありのジャパニーズ・エンターテイメントショー。

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落語も漫才も講談も、生で聞くのは初めて。昼と夜の部に分かれていて、昼の部は盛りだくさんで出場者も多い。かかるのは新作でもより古典的な落語を味わいたかったら、見るべきは夜の部。その日は都合が合わなかったので、昼の部を鑑賞。いろいろと初めてなことの連続だった。

 

まず、客席に食べ物の持ち込み可。ロビーでは柿八のお寿司や嘉心の麩まんじゅうや蓮根餅、ワインやワインに合うおつまみセットなど美味しそうなものが盛りだくさん。

 

コンサートでは幕間にワインやコーヒーがロビーでサービスされることもあるけど、なんというか。。もっと垢抜けない感じ満点で庶民的。気取らない雰囲気を愛する常連さんがしっかり居そうな感じ。

 

プロ・アマ混合の舞台では、当然ながら知ってるメジャーな名前がひとつもない。。メジャーな名前がひとつもないのにも関わらず、結構笑った。ちゃんと楽しめた。

 

他に本業を持つアマチュアや、メジャーな人の出場は皆無にもかかわらず、ちゃんと面白いんだから、人気のプロやメジャーな人だったら、どんだけ面白いのか。

 

比較のしようもないし、メジャーな人が誰かもわからない分野、まったくの無知でのぞんだからこそよけい面白かったのかも。

 

デキゴトロジーとでもいえばいいのか。実際にあった(かもしれない)超B級な出来事を翻案して、笑いに変える芸。テレビの娯楽が身の丈に合わなくなってきた人にちょうどいい、市井の人向けの娯楽。

 

今後の人生で、何があっても決して手に取ることも見向きもしない文春ネタもあって面白かった。何があっても見向きもしないと決めてるのに、思いがけないところで出会うものさ。

 

今回“講談”という話芸を初めて聞いた。落語が会話芸なのに対して、講談は話芸、話を読み聞かせるもの。お話の面白さで引っ張るものだから、古典を掘り起こせば“失われつつある日本の口承芸能”が見つかりそう。

 

観客の平均年齢高め。時には、なぜここで大ウケする???と謎に思うほど、大笑いしてる人も見つかって不思議な気持ちにもなれた。

 

狸小路商店街にはその昔、寄席もあったそうで、寄席のあった昔を知ってる人には、懐かしさ込みで楽しめるイベントっぽい。観音堂があったものの、廃堂になってしまったのも驚きΣ(・□・;)。宗教施設が廃堂になるものなのか???と思うも、ちゃんとした宗教施設は、昔っからその土地を所有してるからな。その辺の違いなのかも。

 

古典落語しか知らないから、ある意味たいへん新鮮だった。食べ物に釣られてつい長居できてしまったので、食べ物大事ね。

 

お休みなさーい。

暑さは一緒、寒さには地域差ありで納得いかない

札幌も30℃を越える暑さで、夏真っ盛り&夏休みをこれ以上ないほど感じた一日。風が強くて、台風でも来そうなくらい。

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札幌と那覇が同じような気温で納得がいかない。暑くなるのは、札幌も那覇もいっしょなのに。那覇にも雪降らんかい。

 

今日みたいな日には、地球は温暖化ではなく寒冷化に向かっているという、寒冷化説どこ~???と探しにいきたくなる。

 

氷点下にでもならない限り、着こめば寒さは何とかなりそうだけど、暑さは防ぎようがない。炎天下を長時間うろつくこともできないし、思考力も奪う。寒い国の人(北欧とか)は勤勉な傾向にあるけど、寒さは対策さえすれば何とかなる。暑くても生産性を上げる、暑さ対策の方がきっとやっかい。

 

と、この辺りで「ひとつの思いつきに、10で返さんでもええんやで」と家人から注意を受ける。

 

暑いね、という素朴なつぶやきに対して、温暖化とか思考力とか生産性とか。知ってることばを総動員しなくても、そうやねで済ませんかい、暑苦しいと。そうやね、と言いながら、アイスを食べた。生のバナナはさして好きでもないけれど、アイスの実の完熟バナナ味は、バナナの香りとアイスの実特有の食感がマッチしてて美味しかった。

 

バナナ味スイーツ、中でもバナナ味のアイスはどことなくどんくさくて、平らな道でも転ぶような人のイメージを勝手に持ってる。バナナ味スイーツに対する風評被害スマン。

 

生のバナナを使ったスイーツの方が、バナナ味より断然美味しいよねーと思っていたけれど、生のバナナの食感は微妙に苦手。

 

アイスの実のむにゅっとした食感は、生のバナナの食感を生かしつつ、微妙に生のバナナが苦手なごくごく少数の人間でも納得できる弾力のあるところがいい。

 

いえね、美味しかったんですよ、思いがけず。

 

一度もお目にかからずに終わる限定発売品が多いなか、珍しくゲットした限定発売品。ジューシーなメロンとかぶどうもいいけど、今日は変化球が欲しいという時によさげ。

 

暑いので、写真を撮る元気もなかった。。

 

お休みなさーい。

資本主義は退屈だから、バンクシーが大暴れ『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』見てきた

あ、私お金スキーです。なんならお金とってもスキーと言っても過言ではないくらい、資本主義も経済成長も肯定してる。でも、行き過ぎた資本主義は、退屈になっちゃうんだよね。

 

謎のストリートアーティスト・バンクシーが、ニューヨークに滞在して活動した1ヵ月を追ったドキュメンタリーバンクシー・ダズ・ニューヨ-ク』見てきた。

 

アートが都市に飛び出したら、何が起こったのか。

 

市民を巻き込んでの社会実験ともいえる、前代未聞の大イベントで、ストリートに熱狂を巻き起こしたバンクシー。彼の真の狙いは何だったのかを考えることも、宝探しの一環なのかも。

2013年10月1日、BANKSYがニューヨークで展示をスタートさせた。

告知もなく突然始まったその展示は、毎日1店ニューヨーク各地の路上に作品を残し、場所を明かさず公式サイトに投稿。人々はその作品を求めてニューヨーク中を駆け回るという、ストリートとインターネット上の両方で勃発した「宝探し競争」だった。

(映画フライヤーより引用)

バンクシーといえば、正体不明の覆面ストリート・アーティスト。社会性のあるグラフィティ・アート、落書きで知られる人。イギリス出身ということくらいしか公になってなくて、謎が多い。バンクシーの正体に迫るかと思ったら、そこは期待外れ。バンクシーその人よりも、彼の作品やパフォーマンスが、世の中に与えるインパクトに迫ってた。

 

川柳&トリエンナーレを合体させたようなパフォーマンス

www.huffingtonpost.jp

バンクシーは、紛争地帯のガザで破壊された壁に、カワイイ子猫の絵を書くような人。見たいものしか見ないネットの住民に、紛争地帯にだって君たちの見たいもの、子猫はあるよと皮肉を込めて挑発してくる。


映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』予告編

社会性あるいは政治性の強いメッセージに皮肉とユーモアのスパイスをまぶし、誰が見てもわかりやすいイラストで世の中を挑発するのが彼のスタイル。自身のウェブサイトから、作品についての解説も発信するという念の入れようで、SNSを上手に使いこなしてる。

 

ニューヨーク滞在中も、SNSを駆使しまくり。新しい娯楽に飢えている、感度の高そうなニューヨーカー相手に、バンクシーの作品探して街に出よと、呼びかける。

 

バンクシーの作品は、つねにストリートにある。

アートを、美術館でもギャラリーでもない場所で見ることになるから、ビエンナーレトリエンナーレに近い。近いけれど、「そんなものか???」と、テーマに対して首をかしげることもなく、もっととっつきやすくてわかりやすい。彼の作品は、ストリートでこそ価値を発揮する類のもの。美術館やギャラリーでは、作品の良さも半減。

 

パフォーマンスする場所は、選び抜かれている

バンクシーの作品求めて右往左往する人たちは、学生や学生以上オフィスワーカー未満なのか、暇そうでもそれなりに小奇麗。一方バンクシーの作品が置かれた場所には、時には勤勉に働いてるけど報われてないっぽい人も登場する。

 

そして、作品求めて右往左往するニューヨーカーとともに映し出されるのは、変わりゆくニューヨークの姿。膨張する豊かな人たちに合わせ、さほど豊かでない人たちの住処や働く場所が奪われていく様子と、そこには無頓着に宝探しに熱狂する人の姿が、きっちり映し出される。

 

ニューヨークをパフォーマンスの舞台に選ぶことで、いやおうなくジェントリフィケーションの問題をあからさまにしてる。でも、バンクシーが光を当てたからといって、ジェントリフィケーションそのものを止めることはない。

 

ストリートの熱狂と、エスタブリッシュメントの冷めた態度との落差

バンクシーの作品には高値がつくけれど、すべての作品に高値がついているわけでもなかった。

karapaia.livedoor.biz

このニュース(実はこれも彼のパフォーマンスの一貫)には、彼の作品の性格が端的に表れている。

 

例えニューヨークを席巻している最中でも、ストリートで安価に売られていれば見向きもされない。ストリートの人にとって彼の作品単体の魅力はその程度で、SNSでホットかつバンクシーと大きなネームプレートがついてるから人気なんだと皮肉ってるよう。

 

その辺りを見越してか、日常的に高価な絵画を売買してるエスタブリッシュメントな人たちは、バンクシーの作品にも冷淡。

 

高値で買い取りたい人がいる一方で、保守的で伝統的な美術愛好家とは相性が悪く、さほど評価もされてない。バンクシーの作品の価値は、本当はどの程度のものか、わからなくなって混乱する。

 

作品を求めて街に飛び出す人がいる一方で、お堅い人からはそっぽ向かれてる。前衛そのものに冷たいのかと思いきや、バンクシーに冷たい人たちは、一般人が名前も知らないような前衛美術には高値をつけていたりする。

 

わかるのは、ストリートの価値感とエスタブリッシュメントの価値観には深い溝があり、エスタブリッシュメントの価値観に沿ったアートでは、ストリートの人を熱狂させられるのか、とっても疑問だということ。

 

アートの価値ってナニ?

ピカソルノアール。すでに評価の定まった、死んでしまった人のアートを見るために、時には長蛇の列を作ってまで人は美術館に行く。

 

わざわざ足を運ぼうと、アクションを起こさせる。それもアートの価値でもあるのなら、ニューヨーカーを引っ張り回したバンクシーのアートの価値は、相当なもの。

 

美術館を飾るような死んでしまった人のアートは、ストリートの人にとっては時に退屈。退屈だけど、膨張する豊かな人たちは“潤いと洗練の日々”や“ひときわ輝く珠玉のナントカ”にふさわしいと珍重する。

 

もうセンスがまったく違うんだ。

 

アート単体でもなく、バカ騒ぎとセットでないと楽しめないのがストリートの人のセンス。なのに、膨張する豊かな人たちのセンスは、彼らのセンスには寄り添ってくれない。

 

だから街が、ストリートが、より数の多いさして豊かでない人にとって、退屈なものになっていく。正しさやすでに定まった評価に従って作られた街には、遊びがない。行き過ぎた資本主義は、ただ退屈なんだ。

 

去ったバンクシーが残したもの

バンクシーの宝探しは、ストリートに欠けていた遊びを明らかにした。

 

打倒!資本主義でも、めざせ資本主義の転覆でもない。ただ行き過ぎた資本主義は退屈になるから、資本家に席巻される都市にはリバランスが必要で、そこには遊びや遊び場があった方が楽しいじゃないかと、パフォーマンスという行動で示してた。

 

ニューヨークの「太ったおばさん」のために、せっせと靴を磨くようなバンクシーの活躍(?)が見れて大満足。バンクシー好きな人におススメ。

 

追記:

 日も差さないアパートの地下の一室でさえ、月に1400ドルもかかるような世界級都市では、アートや文化に回す余裕もなくなる。

 

かといって数の上では多数派となる、アートや文化とは無縁の持たざる人に、アートや文化が寄り添い過ぎると、結局はスキャンダルといった衆愚に向かってしまう。

 

ニューヨークでは公営のマイクロ住宅も登場し、生活にかかるコスト、中でも住居費を抑えることで、持たざるけど文化的な人が都市にとどまれる方法を探り始めた。

 

豊かな人の洗練に寄り過ぎると退屈が待っていて、持たざる人のえげつなさに寄り過ぎると衆愚に向かう。そのどちらでもない均衡点を探るのは“公“で、バンクシーからの贈り物もより”公“なものに手厚かった。

BANKSY IN NEW YORK バンクシー・イン・ニューヨーク【日本語版】

BANKSY IN NEW YORK バンクシー・イン・ニューヨーク【日本語版】

 

 お休みなさーい。

 

今週のお題「映画の夏」

 

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ズッキーニは使えるやつ、ズッキーニのおかか炒め

いつの間にか一般家庭にもすっかり浸透したズッキーニ。

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ナスのようなアクもなく、皮をむく手間いらずで大変便利なお野菜。イタリアンと相性よさげだけど、和食でもイケる。

 

【材料】

  • ズッキーニ 1本
  • 酒 大さじ1/2
  • しょうゆ 大さじ1/2
  • パック入りけずりかつお 1袋

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ズッキーニは洗ったあと、約5センチくらいの長さにカットする。上記のズッキーニだと3パートに分かれる。その後、棒状に切る。

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温めたフライパンに油を引き、ズッキーニに火が通るまでやや強火で炒める。

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ズッキーニに火が通ったらしょうゆと酒を回しかけ、汁気がなくなるまで1~2分炒める。

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火を止めたあと、けずりかつおをふり入れひと混ぜしたら完成。

 

10分くらいあればできる、簡単レシピ。お弁当のおかずにも活躍した。

 

ズッキーニ自体はクセのない味なので、何にでも合わせやすい。お味噌汁の具にもしたりする。そのくせきゅうりのかわりに、生のままサラダにも使える。煮ても焼いてもダイジョーブで、過熱して使うことの少ないきゅうりよりも断然、使える奴。

 

輪切りにしたズッキーニとしめじをフライパンで炒めて、塩コショウ。仕上げにとろけるチーズをまぶしただけのもピザっぽいレシピも好き。わざわざレシピを書き起こすのも面倒なくらい超簡単なのに美味しい。スライスしたバゲットやトーストの具にもなる奴。

 

新聞に連載されていた、「かんたん美味」というシリーズより切り抜いたレシピ。かんたんに作れるレシピが豊富で、せっせと切り抜いてた。ズッキーニのおかか炒めが本にまとまってるかどうかまでは知らない。

かんたん美味1(日経ビジネス人文庫)

かんたん美味1(日経ビジネス人文庫)

 

 

かんたん美味2(日経ビジネス人文庫) (日経ビジネス人文庫 グリーン へ 2-2)

かんたん美味2(日経ビジネス人文庫) (日経ビジネス人文庫 グリーン へ 2-2)

 

 

お休みなさーい。

 

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紅茶を料理に使って作る、紅茶鶏

買った、あるいは貰ったもののイマイチ好みではなかった紅茶の、有効活用にもなるレシピ。飲むときには鼻につくイマイチな香りも逆にスパイスとなるので、ブレンドティーだとなおよし。

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【材料】

  • 鶏むね肉 1枚
  • 紅茶 茶葉でもティーパックでも 2杯分が目安
  • リンゴ酢あるいは米酢 大さじ3
  • 醤油 大さじ3
  • 酒 大さじ3
  • はちみつ 大さじ1

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鍋に500mlほどの水を入れ、好みの紅茶を入れて煮出す。リーフティを使用する場合は、小さじ3くらいが目安。お茶パックに入れて使う。

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鶏むね肉(ところどころ包丁で切り目を入れ、平らにしておく)を、よく煮出した紅茶の中に入れ、やや弱めの中火で30分ほど煮込む。

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煮込んだ後の、紅茶色に染まった鶏むね肉。

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ジップロックなど保存用の袋に調味液を入れ、鶏むね肉も入れた状態で、しばらく粗熱をとる。粗熱が取れたら冷蔵庫へGO! 1~2時間ほど冷蔵庫で漬け込む。途中ひっくり返すなどして、満遍なく調味液に漬かるようにする。

 

調味液を倍量にして、深めの保存容器で漬け込んでも可。でもそうすると、調味液があまっちゃうんだよね。。ということで、ジップロック使用を推奨。

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完成。漬け込んだ後の鶏むね肉だ☆ 

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スライスすると、こんな感じ。

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好みの野菜を盛り合わせ、スライスした鶏むね肉を載せ、タレを回しかけて食べる。

 

甘酸っぱい調味液が絶妙に美味しくて、夏場でも食欲がすすむ。鶏皮の部分が特に美味しいんだ。鶏皮だけで作ってもいいかもしれない。スライスした鶏皮ときゅうりの細切りをあえれば、お通し風の一品に変身する。

 

余った調味液はお酢入りなので、保存性もあり。使い回しもできる。

 

クックパッドで今も人気のレシピ。紅茶鶏で検索すると、今でも検索1位で出てくる。「なおざくら」さんによるレシピ。長年重宝してる。

 

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低―い位置から見たウェブメディア興亡史『ウェブでメシを食うということ』読んだ

低―い位置から見たウェブメディア興亡史『ウェブでメシを食うということ』読んだ。

ウェブでメシを食うということ

ウェブでメシを食うということ

 

 角川書店から刊行された全15巻の角川インターネット講座が、ネット社会の上層、エスタブリッシュメントによる総括だとすれば、こちらはもっと低―い位置から見たネット社会が描かれる。

 

著者は、『ウェブはバカと暇人のもの』を書いたネット編集者でライターの中川淳一郎氏。ネット社会を牽引してきた人たちが作った入れ物に、中身、コンテンツを提供し続けてきた人、自称“IT小作農”。

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 

 各層から、ネット黎明期を振り返る本やコンテンツが出回るようになった。ネットも幼年期の終わりを迎えつつあると感じる、今日この頃。『ウェブでメシを食うということ』にも、ノスタルジーがいっぱい。

 

テレビブロス編集者を経てネットニュース編集者として、長くネットニュースの最前線に居る人。痩身でインテリっぽい風貌に博報堂出身ながら、エンタメ路線、ぶっちゃけ下世話な路線が主戦場っぽい。最近ではLIGのサイトで、真っ裸になってた記憶も鮮明。

 

著者が嫌いなネットサービスと名指しするはてなユーザーで、はてな経由でネット情報に触れてきた。なので描かれるネット社会のあれこれも、知ってるようで知らないこと、あるいは受け止め方が180度異なっていたりすることもあり。ネット社会は広大だ。。

 

はてなのコミュニティは独特だから、同時期のメインストリームはこうなっていたのかΣ(・□・;)と今さらながら驚ける。

 

ネットファーストが当たり前となる少し前、テレビや新聞・雑誌にラジオといった主要メディアに追いつけ追い越せと互いに助け合ってきた名残か、ネットメディア同志の横のつながりが濃厚だった時代。アルファブロガーやアルファツイッタラー、あるいはネット有名人の名前がてんこもり。

 

編集長・編集者としてたくさんのウェブライターの面倒を見てきた人。すでにご意見番となっている人だけでなく、これからの活躍が期待できそうな若手の名前もあり、こいつらをご贔屓にね!という著者の面倒見のよさもうかがえる。

 

きっとabemaTVでは、ここで紹介されていた人の幾人かはコメンテーターとして活躍するんじゃないかと、勝手に想像。ウェブの人は、ウェブ出身の人を贔屓にするから。

 

けっこう無茶ぶりもやらかしながら、企業と組んでお仕事をされてきて、ウェブニュースといえど、信頼性には相当気を配ってきたことも明らかにされる。

 

はてなブックマークというソーシャルブックマークサービスはその辺無頓着で、著作権無視サイトや数日したら消されてるような怪しいニュースでも、面白さファーストでホッテントリ入りしてしまう。最近は対策がなされたのか、別の事情でもあるのか様子が違うけど。

 

著者の「はてな嫌い」には、かつては日本のグーグルになるかと期待を寄せたのに、結局はそうならなかった落胆がある気がしてしょうがない。

 

そして真偽不明な情報や、時には「ネットがあったから人生がよい方向に変わった」というネット美談風の逸話も政治的に極端に偏った意見も、ブックマークを使えば拡散させやすい。プロパガンダに利用されやすいから、消耗しつつも精度の高い情報を送り出してきた人からすれば、きっと腹立たしい。

 

そんなことなーんにも考えずに使ってたけどさ。一見賢しげだったりすると、つい騙されやすくなるんだな。語り得ないことには言及しない、おバカな態度の方が実は賢明なのだと悟るには、ある種の通過儀礼も必要だから。

 

ところが今のネット社会は通過儀礼には手厳しくて、一発レッドカードが待ってたりする。

 

・普通とは異なる行為を公共の場でやったことを報告してはいけない

・自由な場であるのは、カネ稼いでいない人だけ

・ネットでスキャンダルはウケない、やってはいけない

 

あたりは、これ以上失敗する人が出ないよう、オジサンからの親切なアドバイス、いわば遺言になっている。

 

同時に、だからはてな嫌いなんだね。。とよく理解できる。愚行権の行使に大甘な人が、ごく一部ながら強力に存在するのがかつてのはてなでもあったから。

 

愚行権の行使には大甘で、高尚な話題が好きで、でも意識の高さに財布が伴うことは少なくて。

 

長らくはてなユーザーだけど、コミュニティに深くコミットする気になれなかったのはそのせい。東日本大震災の後、運営が設けた寄付サイトには思ったほど寄付が集まらず、日頃思う存分政治談議をしてるわりには何だかな。。と思って以来そうなった。

 

怪しい人が多数存在していたネット社会も上場企業主導に変わり、愚行権の行使にも厳しくなった。もうウケないし、誰も喜ばない。バカやってるように見える人も、いくつものハードルをクリアしてやってるんだ、きっと。一般人が真似したら、大火傷する。

 

ネットが当たり前になってabemaTVや、Kindle unlimitedにポケモンGOに。可処分時間の奪い合いもますます熾烈になった。各人が「好きなもの」にますます没頭しやすくなったなかネットで生き残ろうと思ったとき、フロントランナーとして立ち塞がるのが、『ウェブでメシを食うということ』に出てきた人たち。

 

海のものとも山のものともわからない黎明期を、共に切り開いてきたのがこの人たち。そこで培われた信頼やつながりは強固なものだから、ニューカマーにはますます厳しい。はてなユーザーには、とりわけ厳しそう。

 

かつては新天地だったネット社会にも、すでに重鎮がどっかり腰を下ろして、マナー違反をする人間に目を光らしている。相当な数の後進を育ててきた彼らの、“大人しくしとかんかい”を跳ね返すには、相当なはねっかえりじゃないと難しい。

 

自称IT小作農とはいえ、それなりにネットの目立つ場所で生き残り続けてきた人が振り返る、ネットクロニクル。

 

歴史は、生き残った人によって紡がれるを実感した。かつてはネット論壇をにぎわした人の名前、故意なのかすっ飛ばしてる気がしてしょうがない。匿名の哀しさやね。

 

お休みなさーい。