あ、私お金スキーです。なんならお金とってもスキーと言っても過言ではないくらい、資本主義も経済成長も肯定してる。でも、行き過ぎた資本主義は、退屈になっちゃうんだよね。
謎のストリートアーティスト・バンクシーが、ニューヨークに滞在して活動した1ヵ月を追ったドキュメンタリー『バンクシー・ダズ・ニューヨ-ク』見てきた。
アートが都市に飛び出したら、何が起こったのか。
市民を巻き込んでの社会実験ともいえる、前代未聞の大イベントで、ストリートに熱狂を巻き起こしたバンクシー。彼の真の狙いは何だったのかを考えることも、宝探しの一環なのかも。
2013年10月1日、BANKSYがニューヨークで展示をスタートさせた。
告知もなく突然始まったその展示は、毎日1店ニューヨーク各地の路上に作品を残し、場所を明かさず公式サイトに投稿。人々はその作品を求めてニューヨーク中を駆け回るという、ストリートとインターネット上の両方で勃発した「宝探し競争」だった。
(映画フライヤーより引用)
バンクシーといえば、正体不明の覆面ストリート・アーティスト。社会性のあるグラフィティ・アート、落書きで知られる人。イギリス出身ということくらいしか公になってなくて、謎が多い。バンクシーの正体に迫るかと思ったら、そこは期待外れ。バンクシーその人よりも、彼の作品やパフォーマンスが、世の中に与えるインパクトに迫ってた。
川柳&トリエンナーレを合体させたようなパフォーマンス
バンクシーは、紛争地帯のガザで破壊された壁に、カワイイ子猫の絵を書くような人。見たいものしか見ないネットの住民に、紛争地帯にだって君たちの見たいもの、子猫はあるよと皮肉を込めて挑発してくる。
社会性あるいは政治性の強いメッセージに皮肉とユーモアのスパイスをまぶし、誰が見てもわかりやすいイラストで世の中を挑発するのが彼のスタイル。自身のウェブサイトから、作品についての解説も発信するという念の入れようで、SNSを上手に使いこなしてる。
ニューヨーク滞在中も、SNSを駆使しまくり。新しい娯楽に飢えている、感度の高そうなニューヨーカー相手に、バンクシーの作品探して街に出よと、呼びかける。
バンクシーの作品は、つねにストリートにある。
アートを、美術館でもギャラリーでもない場所で見ることになるから、ビエンナーレやトリエンナーレに近い。近いけれど、「そんなものか???」と、テーマに対して首をかしげることもなく、もっととっつきやすくてわかりやすい。彼の作品は、ストリートでこそ価値を発揮する類のもの。美術館やギャラリーでは、作品の良さも半減。
パフォーマンスする場所は、選び抜かれている
バンクシーの作品求めて右往左往する人たちは、学生や学生以上オフィスワーカー未満なのか、暇そうでもそれなりに小奇麗。一方バンクシーの作品が置かれた場所には、時には勤勉に働いてるけど報われてないっぽい人も登場する。
そして、作品求めて右往左往するニューヨーカーとともに映し出されるのは、変わりゆくニューヨークの姿。膨張する豊かな人たちに合わせ、さほど豊かでない人たちの住処や働く場所が奪われていく様子と、そこには無頓着に宝探しに熱狂する人の姿が、きっちり映し出される。
ニューヨークをパフォーマンスの舞台に選ぶことで、いやおうなくジェントリフィケーションの問題をあからさまにしてる。でも、バンクシーが光を当てたからといって、ジェントリフィケーションそのものを止めることはない。
ストリートの熱狂と、エスタブリッシュメントの冷めた態度との落差
バンクシーの作品には高値がつくけれど、すべての作品に高値がついているわけでもなかった。
このニュース(実はこれも彼のパフォーマンスの一貫)には、彼の作品の性格が端的に表れている。
例えニューヨークを席巻している最中でも、ストリートで安価に売られていれば見向きもされない。ストリートの人にとって彼の作品単体の魅力はその程度で、SNSでホットかつバンクシーと大きなネームプレートがついてるから人気なんだと皮肉ってるよう。
その辺りを見越してか、日常的に高価な絵画を売買してるエスタブリッシュメントな人たちは、バンクシーの作品にも冷淡。
高値で買い取りたい人がいる一方で、保守的で伝統的な美術愛好家とは相性が悪く、さほど評価もされてない。バンクシーの作品の価値は、本当はどの程度のものか、わからなくなって混乱する。
作品を求めて街に飛び出す人がいる一方で、お堅い人からはそっぽ向かれてる。前衛そのものに冷たいのかと思いきや、バンクシーに冷たい人たちは、一般人が名前も知らないような前衛美術には高値をつけていたりする。
わかるのは、ストリートの価値感とエスタブリッシュメントの価値観には深い溝があり、エスタブリッシュメントの価値観に沿ったアートでは、ストリートの人を熱狂させられるのか、とっても疑問だということ。
アートの価値ってナニ?
ピカソにルノアール。すでに評価の定まった、死んでしまった人のアートを見るために、時には長蛇の列を作ってまで人は美術館に行く。
わざわざ足を運ぼうと、アクションを起こさせる。それもアートの価値でもあるのなら、ニューヨーカーを引っ張り回したバンクシーのアートの価値は、相当なもの。
美術館を飾るような死んでしまった人のアートは、ストリートの人にとっては時に退屈。退屈だけど、膨張する豊かな人たちは“潤いと洗練の日々”や“ひときわ輝く珠玉のナントカ”にふさわしいと珍重する。
もうセンスがまったく違うんだ。
アート単体でもなく、バカ騒ぎとセットでないと楽しめないのがストリートの人のセンス。なのに、膨張する豊かな人たちのセンスは、彼らのセンスには寄り添ってくれない。
だから街が、ストリートが、より数の多いさして豊かでない人にとって、退屈なものになっていく。正しさやすでに定まった評価に従って作られた街には、遊びがない。行き過ぎた資本主義は、ただ退屈なんだ。
去ったバンクシーが残したもの
バンクシーの宝探しは、ストリートに欠けていた遊びを明らかにした。
打倒!資本主義でも、めざせ資本主義の転覆でもない。ただ行き過ぎた資本主義は退屈になるから、資本家に席巻される都市にはリバランスが必要で、そこには遊びや遊び場があった方が楽しいじゃないかと、パフォーマンスという行動で示してた。
ニューヨークの「太ったおばさん」のために、せっせと靴を磨くようなバンクシーの活躍(?)が見れて大満足。バンクシー好きな人におススメ。
追記:
日も差さないアパートの地下の一室でさえ、月に1400ドルもかかるような世界級都市では、アートや文化に回す余裕もなくなる。
かといって数の上では多数派となる、アートや文化とは無縁の持たざる人に、アートや文化が寄り添い過ぎると、結局はスキャンダルといった衆愚に向かってしまう。
ニューヨークでは公営のマイクロ住宅も登場し、生活にかかるコスト、中でも住居費を抑えることで、持たざるけど文化的な人が都市にとどまれる方法を探り始めた。
豊かな人の洗練に寄り過ぎると退屈が待っていて、持たざる人のえげつなさに寄り過ぎると衆愚に向かう。そのどちらでもない均衡点を探るのは“公“で、バンクシーからの贈り物もより”公“なものに手厚かった。
BANKSY IN NEW YORK バンクシー・イン・ニューヨーク【日本語版】
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