現代で生きていくためには全然まったく必要そうでない寺社奉行という存在は、時代小説、つまりエンタメで仕入れたもの。
遠山の金さんは町奉行。町方、つまり市井で起こる事件を捜査して裁く人。対して寺社奉行は、寺社(神社仏閣)の管轄するエリアで起こった事件を捜査して裁く人だったと記憶してる。
町方と管轄を分けるのは、市井を支配する最高権力者よりも長く続いているものに対しての配慮。あるいは遠慮で、それが江戸で徳川の時代なら、江戸時代よりも長く続いている組織には長く続いた組織なりの法や支配の体系があるから、無遠慮に踏み込まない。と、考えればわかりやすい。
場合によっては勝たせてやった、あるいは花を持たせてやった側には増長や驕りがあり、勝たせてもらった方には遠慮が生まれる。
そういう力学などないものとして、異なる体系を持つ相手のセンシティブな部分に無遠慮に踏み込むと、返り討ちにされる恐れが十二分にあるから気を付けようね。という処世でもあるのだと思う。
今年のひな祭りはまだ肌寒く、雪だってまだ降り止まない北国のことだから、糯米をそのまま炊いた白いおこわにした。おこわだとお寿司よりもほんのり温かで、今年のひな祭りはまだまだ温かいものが恋しくなる寒さだった。
白いおこわに刻み梅とサヤインゲンで、ほんのりピンクと黄緑にいろどって、魚食の国らしく白身の魚で作ったでんぶをやっぱりピンク色に染めて、白身魚のマリネ(甘くない柑橘、柚子や橙の果汁とほんのちょっとの薄口しょうゆで〆た)と花型に抜いたピンクのかまぼこを一緒にトッピング。蛤の潮汁を添えて、ひな祭りの食事にした。
切り身でしか見たことのない”ソイ”という魚は鯛に似て、白身で扱いやすい。
でんぶのようなふりかけは大量に作ると大変だけど、一食分プラスアルファ程度なら、刺身のサク半分でじゅうぶん。半分はマリネ。茹でるなり蒸すなりしてからフライパンで炒り、梅酢のようなものでピンクに染める。
ラディッシュ、赤カブに紅芯大根。梅酢以外にもピクルスにしておくと自然に赤く発色する野菜があり、梅酢のように使ってる。
もしも自分がこれからの時代に女の子を育てるとしたら、まず望むのはたくましさ。
たくましさを求めると一時的にユニセックス、男も女もなくフリルやリボンのような女らしさは後回しになるけれど。たくましさを身につけた女性が女性性を失っていくのなら、女性は残らず従来女性が好むものとされてきたものも残らなくなる。
フリルにレースにリボン、などなど。女性性あふれたものはやっぱり余裕の産物で、女性が女性性を存分に発揮しているならそこには余裕がある。
ものすごく男性らしい人がものすごく女性らしい人を否定するかというと、きっとそうじゃない。ものすごく女性らしい人がものすごく男性らしい人を否定するかというと、そうではないように。
”らしさ”を高めて磨いていくと、対極にあるらしさを磨いた人にしかできないことがよくわかるようになる。だから安易には否定しない、ということでもあると思う。
男性が男性らしくなくなり、女性が女性らしくなくなって性差がゆらぎ、男らしくもなく女らしくもないものが最も生きやすい場は、デコボコのない世界。
都市が都市らしく、ネオンギラギラ。あるいはイルミネーションきらきらでピカピカだったら、自然は自然らしく緑ゆたかでいられることでもあって、どちらもらしくない時、都市でもなければ自然ゆたかでもない状態が生まれるんだと思う。
男らしさと女らしさ。あるいは都市や人工物が都市らしく人工物らしいと、自然が自然らしい。
その差は本来紙一重で、紙一重程度の差だから楽々越境できるけれど、あえて超えないから各々がらしくいられるんだ。というのは、超えてしまってらしくなくなった人や物を見ればよくわかる。ということでもあるのかも。