クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

少女マンガ育ちによる少年マンガ考

目に星、背景にはバラにお花の昭和の少女マンガ育ち。なので、平成・令和の青少年マンガはストーリーに没頭するには違和感があり過ぎる。

 

どっぷりハマれない代わりに、客観的に見ることはできる。例えば『キングダム』に『鬼滅の刃』。どちらもアニメ化・実写化と、大きく育った青少年マンガ

 

そもそも青少年マンガには疎いから、ビッグタイトルしか知らない。タイトル・キャラクター・ストーリーの全てが”大体わかる”作品なんてほんの少しで、タイトルは知っていてもジャンプかマガジンかなんて、グーグルさんにでも聞かないとわからないし、知らない。

 

そういう少女マンガ育ちから見たとき。持たざる者が一芸(キングダムの場合は剣技)に秀で、才能を伸ばして生かせる集団と出逢い、集団ごと大きくなりながら秀でた個人でさえ生き抜くことが難しい乱世を生き抜き、最終的には天下統一に至る。らしい。(らしいというのは、最後まで見てないし読んでないから)

 

というキングダムのストーリーは、言ってみれば金の成る木=金貨でコインの表(おもて)面。

 

才能ある者が才能を磨き、より強くなるために集団を鍛えて率い、ゴール(=天下統一)をめざしていく。実社会に例えれば、株式分類、物流・運輸の上場企業にパーマネント雇用され、企業内での出世をめざしたのちに業界内での出世をめざす誰かを主人公にしたようなもの。

 

一方家族や顔の見える知り合いと、ささやかかつ穏やかな生活を営んでいた優しくて頼りになる少年の住む世界が、突然”鬼”に襲われ生活が一変し、訳のわからないうちに魑魅魍魎とまみえて闘い、魑魅魍魎が存在する世界の理(ことわり)を学びながら”鬼”を倒す剣士へと成長していく。

 

という鬼滅の刃のストーリーは、金の成る木=金貨でコインの裏面であって、どこかの権力構造が揺らぎ、揺らいだ世界で誰かが新たな権力者をめざしたときに出現する。そういう世界を描いているんだと思った。

 

例えば、スポーツ。一芸に秀でた環境には恵まれない少年が、スーパープレイという個人技を身に付け磨いても、集団でない限りもっと広い世界で大きな権力にはたどり着けない。

 

世界には大金が稼げる各種のプロスポーツが存在するけれど、卓越した個人技を世界規模の大会で見せつけた後でもないと、世界水準の年棒には届かないはず。

 

世界水準の年棒(=評価)にたどり着いた選手の輩出が続くと、そもそもレベルの高い集団から選出されているということになって、最初に世界の壁を越えたスーパー選手の水準には遠く及ばなくても、評価額が変わる。

 

強い集団になるよう鍛えて率い、集団で突破するとはそういうことで、集団の価値を変える闘いが、金の成る木=金貨でコインの表(おもて)面の闘い。だからキングダムを例にすれば、”王”とは”、将軍”とは、という訓示が時々入るけれど、訓示を無視すれば集団は強くなれない。

 

ただ、一芸に秀でることができる代表的なものといえば例えばスポーツ、例えば音楽や芸術その他。一芸に秀でた誰もが”集団で強くなる”ことに熱心だとは限らない。

 

個人が強くなりたかったら国を移ればよく、楽しくやりたい、楽しむこと優先だから集団ではなく個人を選んだとき、人は”鬼”に襲われ集団が強くなるための人柱(ひとばしら)になるよう強いられる。鬼滅の刃の主人公の少年は、よく働き自分より弱いものにも優しい。新興集団には欠けがちな要素を持った少年だから、狙われた。という見方もできる。

 

最強のホニャララをめざして闘う。という青少年マンガでは常に王道のテーマは、スポーツなど実社会に根差したものと異世界ファンタジーなど実社会に根差さないものとに分かれるけれど、どちらか一方に偏ることはなく常に両輪のはず。

 

実社会を反映したものであろうと、異世界ファンタジーものであろうと。優れた個人技では越えられない壁、往々にして世界の壁は集団で越えようと、属した世界のルールを学び、ルールに習熟することでより強くなることをめざすという点では共通のはず。

 

少年マンガが、最強の何者かをめざして闘うコインの表(おもて)面と、平和な日常から突如放り込まれた異世界で生き抜き元の平穏な暮らしをめざすコインの裏面で構成される一方、少女マンガの主なテーマはシンデレラストーリー。

 

普通の少女が勉強秀才やスポーツ秀才、あるいは音楽など芸術的才能に恵まれた”優れた異性”と出逢い、優れた世界を知って馴染んでいく。あるいは、優れた世界をよりよくしようと共に成長していく。

 

あるいは、恵まれた環境で育った女性が正反対の境遇、例えば不良少年と出逢って恋をする逆玉の輿ストーリーのどちらも、相手が上でも下でも女性が異なる世界の橋渡し役となるという点では、言ってみれば講和のようなもので政治的決着あるいは政略的結び付きをただ美しく描いただけのもの。

 

そう言ってしまえば身も蓋もないけれど、戦争が起こった世界で餌食になりやすいのは女こども。だから女こどもの娯楽、それも長く支持され愛される娯楽には、必ず反戦思想が盛り込まれているはずで、究極の反戦思想は戦争はお金がないと続かないし続けられないと、腹が減っては戦はできぬだと思ってる。

 

最近の少女マンガの傾向については疎いけれど、勉強ができて優秀ではあるけれど情緒に欠陥、あるいは問題がある少女が、同じように優秀な少年と出逢って欠陥や問題を克服していくというパターンもある。

 

例えば古いけれど『彼氏彼女の事情』や『となりの怪物くん』などは、シンデレラストーリーに対して職場結婚のようなもの。欠陥や問題が解決すれば主人公の少女はすんなり集団に馴染むことができ、そもそも優秀なだけに集団の一員として活躍する余地が十二分にある。

 

女優・歌手など何らかのタレント(=才能)に恵まれた女性が、友人や恋人と出逢い別れながら、より高みをめざすというテーマも少女マンガではありがち。集団で強くなろうとする姿が描かれていれば、形は少女マンガでもより青少年マンガ的で、金の成る木の表(おもて)面アマゾネス版の育成と見ることもできる。

 

個人同士の足の引っ張り合いを描くことに主眼が置かれていれば、コインの裏面っぽい。

 

という分類を試みたとき、アイヌの金塊をめざしたところからお話がスタートする『ゴールデンカムイ』は、今までの分類、前例にうまくはまらない。

 

例えば海賊王というわかりやすい立場ではなく、”アイヌの金塊”という存在さえあやふやなものをめざしたストーリーだから、”現時点では解のない答えを探すもの”ということになるのかも。

 

権力や王座、あるいはチャンピオンなどわかりやすいゴールがあるわけじゃない。集団で強くなることをめざしているわけでもないから、主要登場人物も不死身の杉元にアシリパ、脱獄の天才白石と少数精鋭で、時に集団と合流することがあっても集団の流儀には染まらない。

 

個人技に優れた不死身の杉元は、軍に入らず軍隊内での出世をめざさない。軍隊で相応以上の訓練を積んだ強兵が、集団に合流するのは足りないものを補充するときだけ。それが、解のない答えを探す場合のスタイルで、解のない答えを探して旅に出たときからストーリーが始まるという、型でもあるのかも。

 

明治維新という政変後の世界では、政治犯はもと官軍で相応以上の訓練を積んだものだから、戦略が描けて戦局が読める。杉元のように相応以上の訓練を積んだものから見れば、魑魅魍魎ではなく分類や類推がきく相手。対する相手は魑魅魍魎ではなく、歴史的な流れを知らないと理解できないものであることがほとんど。

 

歴史的な流れや背景を知れば理解はできるけれど、現時点では対処しようがない。そういうものと常に相対することになったとき、解のない答えを探す旅が始まるのかも。かもかも。

 

二月は逃げるで、あっという間に三月がきた。新年度まであと少しで、時間が経つのはあっという間。