クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

いつかは現実になる

セルビアという国の名を初めて知ったのは、その頃はまだ歴史の浅かった少女マンガ誌の中だった。

 

大正時代の貴公子(日本人)が想いを寄せる青年(日本人)の恋人(セルビア人)が、セルビア独立運動のために活動中というエピソードは、1980年代前半としては、結構ぶっ飛んでる。

 

ちなみに、現在でも一体どこからの独立をめざしての活動だったのかはよく知らない。

 

とはいえ、日露戦争で極東の新興国日本が大国ロシアに勝利したことで、日本と同じように列強支配に脅かされていた各地の小国が民族主義に目覚めた。という受験のために仕入れた知識とも合っていて、大正時代の空気や雰囲気の補強にもなった。

 

最初期の頃には、少女マンガなのにほとんど女性が登場しないワールドワイドなサッカーマンガなどもあって、おんな子供が対象とはとても思えなかった。

 

すでに歴史を重ねて保守化するメディアでは受け入れにくいコンテンツの受け皿は、往々にして歴史が浅い=新しいメディアだった。そう思えば偏った内容にも納得で、その傾向はわりと最近まで続いていたんだと思う。

 

インターネットのメディアといっても今はよりどりみどりで、インターネットのメディアでひとくくりなんて、できるわけがないけれど。

 

初期のインターネットメディアが、左がかっていた(ように見えていた)。というのは考えてみれば当たり前のことで、主張したいことはあっても主張する場がない。そういう層が、インターネットという新しいメディアに真っ先に乗り込んできた。だから、そう見えていただけのこと。

 

すでに新しくとも何ともなくなったメディアは、相応に保守化する。最初期には主張が目立っていたメディアも、主張することがなくなる(あるいは主張する人がいなくなる)と、主張を前面に押し出すことをやめ、主張とは別のものを売り物にする。

 

だって、その方がよく売れるから。

 

歴史を重ねようと思った時、真っ先に考えるのはお金の算段で、金銭面での見通しが立っていれば歴史は続くし重ねられる。

 

重ねられなかった時は、別の新しい何かが生まれ、重ねられなかった歴史の鬱憤を晴らすかのように、新しいメディアでの主張も激しくなる。

 

夜空でひと際明るく輝く超新星は、誕生の光ではなく爆発の名残り。

 

その構図と一緒で、老成することなく常に激しい主張だけで出来上がっている、老いることのない新しいメディア(=歴史の浅いメディア)は、歴史を重ねられずに爆発した(させられた)メディアの受け皿なんだと見ることができる。

 

だから、常に激しい主張だけで出来上がっているメディアを続けようとするとワールドワイドになって、全世界から理不尽や憤りを搔き集めてくる必要がある。それさえネタが尽きたら次は、自らが理不尽や憤りネタの生成器となる。

 

その段階まで来ると、成熟期に入ったり老成化して激しい主張をすでに必要としなくなった、スタート地点では一緒だった他のメディアとはもう違っている。

 

金銭面での算段が、すでについているからメディアに取り組んでいる側と、取り組みながらお金の算段もつける側では、体力が違う。

 

すでにお金の算段がついているメディアのトーンは一定で、退屈とも紙一重になりがち・退屈だと体力のない側からは攻撃されがち。

 

体力のない側は、体力がある時は元気いっぱいで、体力がない時はもう青息吐息。という状態に、なりがちなのかも。かもかも。

 

元気いっぱいの時と元気のない時と。落差が激しかったものの差が縮まって、常に一定のトーンを保てるようになったのなら長距離走に入ったってことで、体力がついた証し。

 

セルビアという国の名は、受験のための勉強ではまったく出番がなかったけれど、後年現代史で現実の出来事としてめぐり合った。

 

歴史を重ねられたメディアの最初期では、日本人には遠かった出来事やエピソードもやがて現実になる。

 

無謀に見えても長距離を走れるほどの体力をつけ、新しいメディアの歴史を重ねていくのは、きっとそれがわかっているから。だから、一見無茶に見えても無謀でも、やめないんだ。