クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

足りないもの

為すこともなくつれづれに、あるいは欲にまかせて食べ続けていると運動不足になって、食べ過ぎ太り過ぎに一直線。

 

運動量が激減し、激減した運動量に応じて食欲や胃袋も小さくなってくれれば無問題なんだけど。

 

例えば常人の1・5倍の運動量と食欲を満たすために環境を整えたあとで、せいぜい常人の0・8倍しか食べず動かない人しか残らなかったら、たちまち食べ物が余る。

 

ことは環境でお店の林立で選択肢の多様化で最終的には雇用の問題だったら、ただお店を減らすだけでは解決にならない。

 

解決にならないと知っているから食べ過ぎたり太り過ぎたりする場合の解決策は、食べても太らない食べ物。

 

各種の機能=ある種の功徳をうたった機能性食品は、案外そうして生まれてくるのかも。

 

作るのが容易なものは、作りやすくて余りやすい。

 

ただでさえ過剰になりやすいものは、順次作りにくくて不足しがちなものに振り分けていくと凸凹もフラットになっていく。

 

凸凹しているから移動も滞りがちなところがフラット化すると、移動も容易になって過剰と過少が一直線で結ばれる。

 

大量輸送可能なツールが生まれると、同時に過剰と過少の頻発につながって一時的に”ちょうどいい”から遠くなる。

 

過剰も過少もストレスだったら、あえて凸凹した場所をめざすと案外ちょうどいいが見つけやすい。

 

作りやすいものに席巻されることなく作りにくいものも残りやすい。

 

作りにくいものが残っているのならそこは凸凹した場所で、作りにくいものが姿を消したのならそこは以前よりフラットになったってこと。

 

ある種の目利き、常人よりも視野が広く、理解が早くて深い。そういう人はこの種の”他の人が気付かない”モノサシをあちこちに持っていて、その変化を追っているから変化にも敏感に気付くのかも。

 

作りやすいものは余りやすい。だから、作りやすいものから始めて作りにくいに移っていく。マルチタスクと言い換えてみたところで結局は、あまりやすいものの始末から始まった。そう考えてもいいのかも。かもかも。

 

余っても、あるいは余らしても平気なら、そもそもが全然足りてない。