クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

自然豊かな不自然歩道

ここは歩道のはず。なのに、どうしてこんなに歩きにくいんだと文句つけてもしょうがないのは、そこが単なる歩道ではなく「自然」歩道だから。自然が勝っている場所、あるいは自然豊かな場所が、歩きやすいわけないじゃん。

 

単なる歩道ではなく、自然歩道を好んで歩く。歩きにくい道でも気にしない。わざわざ歩きにくい方を選ぶのはそもそもハンディが少ないからで、ハンディが少ないから気楽なもの。

 

気楽な気分で自然が勝っている場所を歩きながら、気楽な気分では歩いてない、歩きにくい方を行くしかない人を時にはピックアップすると、レンジャー気分も味わえる。ついでに、ハンディなき人では気付けない凸凹も、フラットにできる。

 

鍛錬やトレーニングを苦にもせず、ただレベルが上がっていくのを単純に楽しめるのはやっぱりハンディの少ない方。昨日より今日、今日より明日とただ記録にだけ向き合えるのは、煩わしいことは他にはなーんにもない状態だから。

 

煩わしいことは何にもない。ただ虚心に無心に対象と向き合うだけ。その状態に持ち込むために費やされる労力と費用が途方もないと、虚心でも無心でも対象に向き合えず、邪念が混じる。

 

単なる納涼イベントとしか思われない花火大会の中には競技大会も含まれていて、競技大会だから、最初に打ち上げられるのは採点基準で模範となる花火。模範でお手本で基準だから、控えめ。

 

控えめなお手本のあとに、競技者各々による凝りに凝った花火が次々と打ち上げられるのが、競技大会。凝りに凝った花火はひと目を惹くけれど、ひと目を惹く花火は打ち上げられてもお手本となる花火は打ち上げられなかったら、競技大会に参加し続けるのも難しくなるのかも。

 

小細工や、あるいはもっと大掛かりな細工は得意でも基礎がなかったらお手本は作れない。作れないから、技術のある人に作らせたものを自作したお手本と偽るようなことにでもなったら、そこにはもうすでに邪念が混じってる。

 

虚心や無心になって何かの対象に没頭する。その状態そのものが希少だから、希少な虚心や無心になって何かの対象に没頭した行為の希少性も増すってもの。

 

きれいね、すてきねと褒め言葉の大盤振る舞いが出るのは、無心や虚心といった希少な状態から生まれた世にも稀なものに出会った時で、ありふれたものを見た時には、言葉も続かない。

 

自然歩道は自然が豊かなだけに、その道を行く人の反応も自然。歩き慣れた人は文句も言わずにスイスイと。歩き慣れないけれど、そもそも慣れない道を選ぶ行為そのものを楽しんでる人は、さして苦でもなさげ。時には楽しげ。歩きたくないのに歩かされている人は、あからさまにイヤそう。

 

それもこれも「自然」だからで、自然歩道のはずなのに反応は一律だったら、そこはもう自然でも何でもないやね。不自然歩道とでも看板を付け替える時さ。