クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

コインの裏と表

お金で買えるのは演技で、お金では買えない感情の代わり。

 

オスカー俳優や女優のギャラが高い(らしい)のは、感情表出が巧みでよりそれっぽく見えるから。そう考えると、感情と演技はコインの裏と表。

 

お金では動かないと、お金でしか、高額報酬でしか動かないも、コインの裏と表。

 

高額報酬でしか動かないものを動かそうとする時に動くのは大きなお金で、お金では動かないものを動かそうとする時に動くのは激情。どちらも大いに波風を呼ぶ。

 

時にお金で動き、時にお金で動かないがブレンドされるのが“ほどほど“で一般的。波風も立たない代わりに、一過性で終わる。

 

長距離走者の孤独は、夏休みの宿題として読書感想文が必須だった頃に、よく目にしたタイトル。読んだことはない。当時の記憶では確か、ゴール直前に主人公は走ることをやめ、レースを放棄する。手厚い保護を受けていた人物への不信が募り、抗議の意味を込めてレースを降りる。そんな感じの内容だったはず。

 

走る。泳ぐ。スキーなどを滑る。あるいは飛ぶ。

 

その種の行為は本来気持ちがいいことで、爽快感いっぱい。爽快感と一体化した行為をやめるのは、同じ行為を続けても、もう以前と同じような爽快感は得られないと知ってしまったかわかってしまった時。

 

走る。滑る。泳ぐ。飛ぶ。その種の行為に没頭して夢中になっているあいだは、爽快感いっぱいで満たされている。爽快感いっぱいという感情で突っ走れるのは、自分ひとりのことを考えていられるあいだだけ。

 

視野が広くなり、自分にとって爽快な行為が、不信を抱く人物の利得に繋がることに気付いたり、自分にとって爽快な行為が誰かを大きく不快にすると気付いた時、爽快だったはずの行為は、爽快ではなくなる。

 

疾走するという快感を奪われても、疾走したいのか。

 

と気付いた時が分岐点で、ただゴールすればよかった。ただ記録を追えばよかった。単純に爽快だった行為が、次のステージに移る。

 

無心にも夢中にもなれない。心理的あるいは社会的な状況のなかで、無心や夢中になれる行為そのものを手放すか。それともかつての感性、爽快感を取り戻すために、無心にも夢中にもなれない障害を取り除くのか。

 

ゴール直前にレースから降りるのは、無心にも夢中にもなれない障害そのものを人生から取り除くこと。走ること以外にも無心かつ夢中になれることがすでにあれば、やめるのは簡単。

 

だけどどうあってもやめられないのなら、無心にも夢中にもなれない状況にあっても、かつてのような爽快感を取り戻すためにも、やっぱり走り出すしかない。

 

走る。滑る。泳ぐ。飛ぶ。そうした行為は爽快感と一体化するためだから、より速くをめざすのか。それとも、不快な行為と一体化されてしまうから、誰よりも早くいち抜けをめざすのか。

 

快をめざした人は快を追い、不快をめざした人は不快へと向かう。めざすベクトルは正反対。爽快な行為は勝手に支援が広がるから、支援は少なくてもいい。不快な行為はそう簡単には普及しないから、支援が手厚くなる。という風に設定すると、快も不快もコインの裏と表。

 

爽快さが持ち味で、その人の爽快なふるまいが世の中を明るくする。

 

そういう人が快を取り戻すまで、不快にあっても手厚く保護するという支援体制が万全だと、快は心地よいものとしていつまでもよき通貨として長く流通する。持続性があって、長持ちするのも快。

 

快に対する支援体制がより整っているのなら、それが結論。

 

気持ちよく泣ける。気持ちよく笑える。不快を経ても、めざすのはあくまで快の方だから、突き抜けられる。ということは、きっとある。