クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

紐つき

インプットが悪かったら、アウトプットが悪いのは当たり前。

 

試練をくぐり抜けて強大な権力を手にするのが、誰が見ても大悪党だったら、与えた試練は大悪党を産むためのもの。

 

主変われど我関せずで、主が誰に変わろうとも与えられた持ち場を死守すれば、食うに困ることはない。という単純な命令や契約を受け入れている限り、昨日の敵は今日の友的に複雑に利権が絡み合う権力闘争には巻き込まれず、食いっぱぐれもない。

 

一寸先は闇で、ついた主が悪ければ明日にも路頭に迷うような見通しのきかない複雑な世の中で魅力的に映るのは、誰にでもわかりやすくて単純なルール。

 

主変われど我関せずで、生きていける。単純なルールが支配する土地や場所には、複雑なルールも複雑に利権が絡み合う構造もイヤになった勢が、勝手に寄ってくるようになっている。

 

覇者にならんとする野心家から、焼き討ちにあって焼き尽くされる。

 

延暦寺の僧兵のような存在は土地と場所に紐ついていて、守っているのは主ではなく土地や場所。土地や場所を脅かす外敵には徹底的に抗戦するという、単純なルールを守っている限り食うに困らなかったら、戦乱の世にあってもそりゃ強くもなって、外敵や侵入者からは目の敵にされる。

 

食うに困らないポジションめぐって、血みどろの争いを続けてるような時代だったんだから。

 

その戦力を傭兵として切り売りしていれば、また歴史は違ったのかもしれないけれど。

 

土地や場所に紐ついて、信仰心よりもむしろ食いっぱぐれないという強力な動機で強くなった戦力や戦団にかしずかれる“主”をめぐって、いつまでたっても争いが絶えなかったのなら。

 

揉め事の原因ごと消し去るために、まずは土地や場所に紐ついた強力な戦力を一掃するという発想はゲームチェンジャーの発想で、非常識なことをさせるための存在だったら常識はいらない。

 

言葉にできないような試練を経て強大な権力を手にするのがそもそも大悪党だったら、欠点だらけ。欠点だらけだから、やることなすこと出鱈目でも当たり前で、たまーにいいこと、善行を行えば過大にプラス評価される。

 

いくらあら探ししても、欠点が見つからない。そんな超人を人為的に作るよりも、ロボットを作る方がきっと簡単で楽。

 

欠点だらけの大悪党に権力を持たせ、欠点しか目につかないようにしておきながら、善行の出番を徐々に増やして過大なプラス評価を効率よく獲得していく。まずは出来が悪いほどカワイイから始まって、立場が人を作るにシフトしていくと、アレは俺・私が大きくしたんだと愛着も湧く。

 

愛着が湧くと、愛着があるものには大体甘くなる。

 

ふるい落とされた側は、ほっておいても大体ふるい落とした側のあら探しに一生懸命になったり、あるいは本業や持ち場そっちのけで、猟官運動に熱心になるもの。

 

だから主変われど我関せずで、誰が主となってもやることは変わらず、やることが変わらない限り食いっぱぐれもないシステムにしておくと、主のあら探しに血眼になることもない。

 

権力闘争がしたいだけ勢と、権力闘争には興味がない勢は、自然と分かれていく。権力闘争がしたいだけ勢は、より大きな権力を動かせる場に勝手に移動していくようになっている。土地と場所に紐ついていたら、移動は極小。より大きな権力めざして移動する人に紐ついていたら、移動範囲もそれだけ広くなる。