風光明媚な道があった。
気候のいい時にドライブするなら、単調な高速よりも四季の変化がよりあからさまな道の方。
途中には思わず写真に撮りたくなるようなきれいに手入れされたお家があったけれど、何しろ個人のお宅だから遠慮してた。通りがかりに眺めるのがひそかな楽しみ。ある時から様子が変わり、変わったあとには宗教の看板が大きくかかるようになり、それも目立たなくなったあとは、ただ通過するだけの場所になった。
高速道路建設にオリンピックやワールドカップのような国際イベント、そして新幹線(高速鉄道)の建設。
誰がどう考えても巨額なお金が動く時には、説明しにくい言い知れないものも一緒に運ばれてくるのか、呼ばれて出てくるのか。
巨額のお金が動くのは時間も一緒に買っているからで、何かがあったんだろうけどその何かは見ていた人たちにも説明のしようがない。そんな出来事があった場所の記憶が薄れるまで、ホールドあるいはシールドされるからなんだと考えると個人的には納得しやすい。
高速道路に高速鉄道に、国際イベント。ソトから大勢の人を連れてきてまたどこかへ運ぶ。そういうツールが揃う前と後では、そんなものなどなかった頃とは景色も環境も変わり、景色や環境が変われば人も変わる。
十年ひと昔でも、見ていた人は覚えている。
場所に紐付いた記憶は、同じ場所を通りかかるたびに思い出す。だから、大移動しやすいツールを作る時には場所に紐付いた記憶や歴史も一緒に移動させて、場所から人に紐付かせると場が記憶から解放されて、場の有効利用がしやすくなる。
そして記憶や歴史の不連続に聡いものと疎いものに分断されて細分化されていって、各々が“真“だと思う記憶や歴史のタコつぼに向かわされるのかも。かもかも。
きれいに手入れされたお家があった。きれいだったお家のあった場所は何だか荒れて、今は荒れ果ててはいないけれど格別きれいでもない。
次の十年で、またきれいになるのかそれともそうではない方に向かうのか。
どう転ぶのか予測がつくようでつかないから、ウォッチが継続しやすいのはすでに“テーマ”が与えられている方で、大急ぎで通り過ぎる高速道路にはない楽しみが加わる。
どうにかなるにもどうにかしようにも、国際的までハードルが上がってしまうと資金面でもうどうにもならず、太刀打ちできない。その前にどうにかしようと思うと、無茶ぶりだけが目立つようになるのかも。かもかも。
最終目的は常に有効利用サイドに対抗できるのは、有効利用とはそもそも無縁かつ相性が悪い方で、対立しているできごとにそう補助線を引いてみると、一見複雑なできごとも至極わかりやすくなる。
常に不始末をしでかす方といつも後始末を任される方が、仲良しなわけないじゃん。で、説明だけはいつも簡単で単純明快。