クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

正史と偽史、不実と事実

物語、お話が事実に介入するとフェイクニュースになり、事実の積み重ねである歴史に物語が介入すると、偽史になる。

 

という気持ちでシェイクスピアの歴史モノを手に取ってみた。文学に目覚めたというわけでは全然なくて、この人こそ印象操作の本家にして元祖で大家で西の横綱だと思ったから。東の横綱と言えば三国志演義の作者だと思うんだけど、三国志演義の作者名は、世界史的には無名。三国志という正史がベースになっていることを思えば、面白おかしく読みやすく脚色した人の名前が後世まで伝わっていなくても、不思議でもないんだけどさ。

 

シェイクスピアは、妖精が登場するようなファンタジックなものも残しているけれど、実在する人物をテーマにしたものも多い。この人の筆加減、書きぶりによって人物像がひとり歩きし、後世の評価が不当に貶められた実在の人物もきっといる。

 

時に難解なことばも飛び出すけれど、基本的に口語体なのがシェイクスピア

 

演劇として上演されることも前提だから、場面転換も鮮やかで枝葉はばっさりカット。退屈させないよう、工夫を凝らしてる。口語体だから、学識のある人が自由に読みこなしていたラテン語などの古典からは遠く、古典から遠いから学識のない人にまで届く。学識のない人にまで届いたから、史実とは異なった人物像がひとり歩きしやすくなった。

 

という手法を踏襲すれば、現代においても印象操作は再現可能で、タチの悪いことに印象操作と作為的に編集された印象を拡散するのにもってこいのツールまで揃っている。おっかねぇ。

 

不都合な真実よりも、都合のいい紛い物を選んだ結果が、偽史の蔓延。

 

本物には手が出せないから、ウケがいいよう自在にいじくり回すと都合のいい紛い物が出来上がり、都合のいい紛い物の数が揃えば偽史の捏造もより容易になる。

 

とはいうものの。偽史も正史もそもそも語る人がいて、検証する人がいてこそのもの。物語でも事実でも、語る「人」そのものが居なくなっちゃったら、そんな素朴なことで騒いでもいられない。

 

物語も事実も、今となっては語るはAIばかりという事態にでもなっていたらどうしましょ。

 

「人」でないものが紡いだ物語を物語として受け入れるのか。あるいは事実として受け入れるのか、事実の積み重ねとしての歴史として受け入れるのかどうか。不実を記載した罪に問えるのは、どこまでか。

 

チャリンチャリンと日銭が入ってくる、貴重なお財布の価値に最初に気付くのもがめつく独占するのも、一年365日お金のことしか考えてない方。

 

お金が絡んでお金が動く局面では、事実が重視される。事実を重んじるから、例えば有価証券報告書のように、不実を記載すれば罰が待っている方を選ぶに決まってる。不実でも罪に問われない方を選ぶのは、事実よりも別の何かに重きを置いている態度かも。

 

明文化もされず、目にも見えない。

 

例えば信義のように定量化しにくいものに反した場合のペナルティは、明文化されたペナルティよりも場合によってはずっーと重い。その種の明文化もされず目にも見えないペナルティを恐ろしいと思う人は、明朗かつ合理的な方をめざす。

 

印象操作の大家にして元祖で本家みたいな、西の横綱。その名前が現在でも広く知られているのは、三国志演義に対する三国志のようにベースとした正史が同時には伝わってないからで、ベースとした正史が同時に伝わってなかったら、偽史なのに正史のような顔をして、正史のポジションにちんまりと収まっていられるのかもね。かもかも。

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20℃もあると、紅葉はもうちょっと先。