内容にはさっぱり共感も感心もしない。なのに定期的に見たくなるのは、ある時代あるエリアに特有の何かが、瞬間冷凍されているから。
例えばブラック・レイン。今はもうないかつてはあった、阪急梅田駅のコンコースが見たくなると、あらゆるシーンを二倍速三倍速で早送りしてでも当該シーンをじっくり眺めたくなる。登場シーンは短いんだけど。
早朝の阪急梅田駅は人もまばらで、コンコースの荘厳な雰囲気はちょっと聖堂や教会に似てると思いながらぽてぽて歩いた昔を思い出しながら。
今はもうないかつてはあった。ある時代あるエリアに特有の景色を効果的に切り取って堪能できるのは、往々にしてアウトローもの。なぜそうなるのかと考えた時、縄張りという概念を入れて考えるとわかりやすい。
縄張りの内だから、ある時代あるエリアに特有の景色を切り取ることもたやすくて、何しろ縄張りの内だから、そのうち消えてなくなるものあるいは消されるものが何かについても詳しそう。
ある時代あるエリアに特有の景色と一緒に映し出されるものは、一見ミスマッチに見えて、実は特有の景色を生み出すのに欠かせなかったもので、景色が変わるとともに消えゆくものだから、一緒に写ってる。
と考えると、いつまでも変わらない景色と、どんどん変わっていく景色の分岐点がどこにあるのかも何となくわかってくる。
あらゆる人を巻き込まないとできなかった景色から、少しづつ人が消えていってあらゆるとはいえなくなった時、景色は変わる。
着せ替え甲斐があるのなら伸びしろがあるということで、伸びしろがあるから、景色も変わっていく。
ある時代あるエリアに特有の景色が見たくなって、再び足を運んでも同じ景色が見られるとは限らない。そのエリアに伸びしろがあるのならお着替えも頻繁で、頻繁だから、ある時代あるエリアに特有の景色は長持ちしない。
あらゆる人を巻き込んで出来上がった景色から、徐々に人が消えていってあらゆるとは言えなくなるまでには時間がかかり、時間がかかるから景色も長持ち。
あらゆる人を巻き込んで出来上がった景色を見て育ち、景色は長持ちするものだという思い込みは、あらゆる人を巻き込まなくても出来上がって次々に変わっていく景色が増えるほどに変わっていく。
昔、あそこは何々だった。あの場所には何々があった。
という、ある時代あるエリアに固有の情報は縄張りの内に留まりがちで、全容を把握している限られた側から、ちょっとづつ切り売りされるだけ。
今はもうないかつてはあった。ある時代あるエリアに特有の景色は歴史そのもので、HistoryにStoryが介入すると偽史になりがちで、そこにあった今はなくなったという事実も曲げられがち。
事実が曲げられるのを目の当たりにすると、曲げられてなるものかと一見ミスマッチなものが、景色とともに残り続けるのかも。かもかも。