クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

エントランス

入り口に男女の別がなく、性差を気にしなくてもよいのは思えば偉大。

 

入り口が一緒だと、共有する情報の幅は広がり共通理解のベースもぶ厚くなる。男だけ、あるいは女だけが知っているような情報の偏差もなくなり、どちらか片方だけが知ってればよいことが減るほどに、みんなが知ってるとよいことが増える。はず。

 

例えば女性誌男性誌といった男女別の区別があると、男性ならみんな知ってるあるいは女性ならみんな知ってるような、性差に由来する情報の偏りも生まれる。

 

男性向けとなっていたら、女性には用のないものとスルーしがちで女性向けとなっていたら、男性には用のないものとしてスルーしがち。スルーしないのは、男性だけど女性心理や生態を観察する必要があるようなケースで、女性にモテるあるいはウケる必要のある接客業や商品開発にでも携わっていたら、重宝するのかも。

 

性差が明らかだから、男性向けあるいは女性向けと、入り口が別々の方がいいものは確かにある。その一方で、嗜好品としての性格が顕著で性差よりも好悪が先にくるようなものは、男性向けあるいは女性向けと、入り口を別にする意味は薄れそう。

 

なんで入り口が分かれてるのさ???と問われた時に、習慣や伝統以外の理由が見つからず、さしたる理由もないのに習慣や伝統に則って入り口を別にしてるせいで効率も悪くなりがち。というケースで効率を上げる必要があると、分かれていた入り口は一緒にされがち。

 

分かれていた入り口を、効率を上げる必要が出来たからようやく一緒にしたところで、最初から入り口が一緒で情報の偏差もなく、共通理解の幅がそもそも広い集団と比べると見劣りするのは否めない。

 

今となっては入り口を別にするほどの意味もないのにわざわざ二つに分けると、お山が二つ。お山の大将も二人必要となって、大将というお仕事の口もひとつ増える。

 

分ける必要もないのに、わざわざ分ける。そのココロはお仕事の口を増えたかのように錯覚させることにあって、パイそのものを増やすことよりもパイが増えたかのように錯覚させるテクニックが豊富で上手だと、それはそれで重宝されそう。