クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

蕎麦でパスタ

お昼は簡単にパスタ、という家庭はきっと多いはず。パスタ用のソース類もピンからキリまで充実してるから。ところで保存がきいて大抵は茹でるだけと調理も簡単な乾麺の蕎麦には、蕎麦粉以外にも大体小麦粉が入っている。

 

小麦粉入りの普通の乾麵の蕎麦と、蕎麦パスタ。

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(これは蕎麦パスタで作ったツナのサラダパスタ)

使う素材も大体似たような同じサラダパスタ風にしてみたら、食味の違いが際立つかと思って両方作ってみた。著しい違いは特になし。

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(こっちは普通の乾麺の蕎麦で作った鮭缶のサラダパスタ)

強いて言えば、蕎麦パスタの方がお腹に重くてたまる感じ。蕎麦つゆで食べる蕎麦はお腹にたまる感じも重いと感じることもなく食べるものだから、同じように蕎麦粉と小麦粉を使っていても出口は蕎麦をめざすと軽くなって、パスタをめざすと重くなるのかも。

 

ずいぶん昔には、“小麦粉100%の蕎麦”という商品を見かけたことがあるけれど、めざす食感や最終形態に向けて素材や配合を変えていくのなら、食品製造というよりももはや化学実験的。

 

食べるものを作っているという意識が希薄になると、食べ物は化学製品に近付いていくんだと実感する。

 

素材から買ってきて自分で調理するときに、塩味が、甘味が、あるいは旨味が足りないとなった時には何かの調味料を足す。食べるものを作っているし、食べるもの用の調味料しか持ってないから、塩にしょう油、砂糖にみりんや酒やその他と、食べ物由来の調味料を使う。

 

だけど素材や配合、あるいは調理法に制約のある“化学製品的食べ物”を作っていたら、塩にしょう油、砂糖にみりんや酒その他旨味となる調味料を使う感覚で塩的なもの、砂糖的なものを使っていても不思議はない。

 

化学的アプローチから入った塩的なもの砂糖的なものの使用が当たり前になると、次は塩的なものを作るための素材も化学的アプローチでいいじゃんとハードルが下がって、塩そのものや砂糖そのものからどんどんかけ離れていってもそこにはやっぱり不思議はない。

 

もったいないをびんぼくさっではなくSDGsとして通用させようと思ったら上、上流をめざした方がいいのも結局はそういうことで、食べ物だったものでも化学製品に変わるから。

 

化学的アプローチが発達して、素材や配合に対する制約が増えてもハードルは超えていけるとわかったとき、食べるものの素材だったものもやっぱり化学製品に置き換わり、塩や砂糖にみりんやお酒に昆布やかつおぶしといった素材そのものも希少なものとなって絶滅を危惧するようなものに変わるのかもしれない。

 

結局のところ需要がポイントで、一見食べ物実は化学製品よりも食べ物を食べたい人の方が多いと食べ物は食べ物のまま。食べ物よりも一見食べ物実は化学製品から落ちるお金で家計が潤ってる人の方が多いと、食べ物は一見食べ物実は化学製品へと姿を変えていくのかも。

 

蕎麦パスタの方が胃に重くてたまる感じだったのは、パスタをめざして国産デュラムセモリナ小麦粉が入っていたからで、国産のデュラムセモリナ小麦粉の販路や市場は小さいから、普通の乾麺の蕎麦よりも割高だった。

 

と考えると割高でも価格に納得感があり、成分分析などしないしさせないからの強気のプライスだと考えると割高な価格には不満足が生まれてくるけれど。

 

高効率な原材料調達があるからやっす~い外国産のパスタが占有あるいは依存しているパスタ用小麦粉市場で、ブランドを確立中だからお高いんだと考えると美味しいものを食べている以上の脳内付加価値がプラスされる。

 

高揚して鎮まらないままのプチナショナリズム、高揚しない人に迷惑かけがちなエネルギーは、市場の勃興や開拓と合わせると相性ピッタリ〜。

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