クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

目に見えるリーダー、目に見えないスタッフ

“言葉は氷山の一角”という、ずっと昔に仕入れたフレーズが今でも通用するなら普遍的。

 

海上で目視可能な氷山の一部分はほんの少しでちっぽけに見えても、海中には巨大な氷塊が潜んでいることがある。

 

表に出る部分はほんの少し。表に出ない部分はその何倍もでかくて巨大。

 

場面や状況に応じて発する言葉を、受け手のレベルに合わせてその都度変えることができるなら、その人の言語野はそもそも豊かで引き出しがいっぱい。

 

いつどんな時でも場面や状況に応じてキャラクターを変えることなく、変わらないワンフレーズを決め台詞にするなら、それはむしろ“CI”。コーポレートアイデンティティーのようなもので、言葉というよりむしろ広告のようなもの。その場合、印象に残ればいいのは言葉ではなくイメージ。

 

表に出ている部分はほんの少し。表に出ない部分はその何倍も深いのは、言葉に限らず何かの組織や集団のリーダーもそうで、集団を代表するリーダーだから何らかのイメージを背負って目立つ場所に置かれるけれど、リーダーが体現しているのは集団のほんの一部分。

 

組織や集団が大きくなるほどに、担当業務に応じて担当部署は増えていく。

 

例えば本社に本庁や本店。大きな組織や集団の本丸の入り口(≒受付)に立つと、大きな組織相応に担当部署が分かれていることがよくわかる。

 

集団を代表するリーダーが発するメッセージが、場面や状況に応じてその時々で変わり、その場に相応しいメッセージを発することができるなら、そのリーダーは引き出しがいっぱいでリーダーに隠れて見えないスタッフがたくさんついている。

 

だから間違えない、あるいは外さない。

 

スタッフが優秀であるほどに、発するメッセージもターゲットとする受け手により正確に伝わるようになり、狙ったターゲットや目標に向けてスタッフを獲得していくから集団は大きくなっていく。

 

着地点や目標に向けて集団を小さくして部署を縮小していくのなら、得意分野に特化して守りを強化していく最中なのかもしれない。

 

組織や集団を体現するリーダーが、その時々で発するメッセージには“今、何を伝えたいか”が強く込められているはずで、発するメッセージが組織や集団を勇気づけるものならスタッフによって精力的にメッセージも拡散される。

 

その逆に、士気の低下や組織や集団を害することになるトップメッセージは、見えないスタッフによって発信そのものが阻害されることもありうることで、組織や集団のイメージと実像が乖離していくのは、きっとそんな時。

 

言葉は氷山の一角で、集団のリーダーが体現しているのも本来は集団のほんの一部。

 

リーダーが本来多様なはずの集団の総意を体現せず、ワンメッセージしか発信しないのならその集団には多様性は求められていない。

 

集団のリーダーが“ホニャララらしさ“を求めてスタッフを率いているとき、発するメッセージはいわば言文一致で齟齬がなく、”ホニャララらしさ“のもとに集ったスタッフだからスタッフとの齟齬もなく、集団は強い。

 

リーダーが新しいあるいは別の“ホニャララらしさ”をめざし始めたのに、スタッフは新しいあるいは別の“ホニャララらしさ”をめざさずリーダーとスタッフの間に齟齬が生まれ、発するメッセージも方向性を失って迷走するようになるのかも。

 

そしてリーダーとスタッフの間にズレがあるときリーダーは集団を体現するのをやめ、表に出なくなるようになって強いリーダーシップが失われ、見えないスタッフに担がれたリーダーしか見えないようになるのかも。かもかも。