クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

味覚は保守的

チャーシューの代わりに天ぷらがトッピングされたラーメンを食べたことがある。麺も具材も全体的にあっさりした味付けで、こってりだと持て余すから個人的にはちょうどよくて美味しかった。

 

ただし、ちょうどいいと思ったのは個人の好みで、“チャーシューのないラーメンなんて”という声の方が一般的で多数。

 

だからラーメンという食べ物にチャーシューはつきもので一般的で、スープが塩でも味噌でも醤油でも、なんならトマトやカレーであってもチャーシューさえトッピングされていたら、その食べ物はラーメンと認識されるんだろう。

 

チャーシューの代わりに天ぷらがダメなら、多分唐揚げやカツにハンバーグでもダメで、タンパク質ならいいでしょ?とはならないあたり、食べ物は保守的。一般的にはこうでしょ?という、固定されたイメージをすでに獲得している場合は特に。

 

麺の上に天ぷらや唐揚げやカツ、あるいはハンバーグを載せて食べたかったら別の食べ物でやって頂戴ということで、本家や本場ではきっとNGを食らうに違いない、パスタの上に唐揚げやカツにハンバーグを載せた食べ物は、パスタの食べ方として定着してる。

 

本家や本場ではNGを食らうに違いないから、試すなら別の場所。

 

味覚が保守的だと知ってる側が新しい何かを試す場所は、いつも本家や本場とは別の場所で、別の場所で試して成功した新奇あるいは珍奇なトッピングは、下敷きにしているご飯や麺の需要が細っても、トッピングはトッピングとして生き残っていく。

 

蕎麦もうどんも和のもの。和の世界とは別の新天地が見つからないと、蕎麦食やうどん食が細るとともに、蕎麦やうどんにつきもののトッピングは、トッピングとしての出番も少なくなっていく。

 

ご飯食、お米を主食とする経済圏は膨張しても、そのなかで“和のトッピング”がどれ程の存在感を保てるかといえば、心許ない。カレーやパスタにピザに唐揚げはトッピングとしてすでに進出しているけれど、天ぷらトッピングが見当たらないのはやっぱり“伝統”で、味覚は保守なんだ。

 

揚げ物でタンパク質でしょ?という点では同じなんだけど。

 

大雑把に分類したら同じものでも同じように扱わないのは保守で、大雑把に分類したら同じものを同じように扱うのは、保守とは反対側にいる革新系。なんだと思うといろいろ納得する。

 

テレビ局のコンテンツとして食べ物系は鉄板で、鉄板なのは保守、与えられた時間枠を埋めるのに都合がよくて、新奇性よりも持続性、続けられるかどうかの方が重要だからなんだと、これも勝手に思ってる。

 

守る人がいるから攻められる。

 

腹が減っては戦はできぬはやっぱり至言で、攻めようと思った時にはお腹いっぱい満ち足りている方が強いに決まってる。気合ではお腹は膨れないから。

 

オールドメディアでイメージするのは、テレビに雑誌や書籍の紙媒体。新しいメディアでイメージするのはテレビでも雑誌や書籍でもない方で、新しいメディアであっても食べ物系コンテンツが充実していたら、守る体制が整っているから攻める方にも積極的なんだと解釈することもできる。

 

メディアのカタチがその国のカタチ。というフレーズを、いつかどこかで目にしたことがあるけれど。食べ物系の情報が溢れている国のメディアは、食べ物に関係するものを大事にしているか、食べ物で成り立っていると思えなくもない。

 

腹が減っても戦はできなかったから敗けたという過去の教訓を反面教師にしていたら、食べることを大事にする。腹が減っては戦はできぬという経験も実感もなければ、食べることはぞんざいに扱う。

 

食べることは二の次三の次で革新に突き進んだ国のメディアが、国としての再末期にいったい何を情報として流していたのか。ふんだんに食べ物情報を流していたとは、どう考えても思えない。

 

現実には手に入らない食べ物なのに、メディアにはふんだんに食べ物があふれているなら、そのメディアはもはや現実とは地続きでもなく、すでに別の国のものなのかも。

 

末期を迎えた国のメディアが、いったい何を情報として流していたのか。末期を迎えた国が増えるほどにデータは積み上がって、予兆が簡単になれば、予兆を逆手に取って虚報を流すことも簡単になる。

 

消えたものに注目する手法は、わりと応用範囲が広いと思ってる。