クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

加速のために必要なもの

簡単に出来そうなレシピがあったので、自分で作ってみたら予想以上に簡単に作れた“いか飯”。使う餅米の量は驚くほど少ないのに、ちゃんとふっくら“いか飯”に形になった。

 

いかと餅米の重量比は、9:1か9.5:0.5くらい。

 

握り寿司のネタとシャリの黄金比はどうなっているのか知らないけれど、ネタに対してシャリが多過ぎると見た目も味もアンバランスになる。

 

まず容れ物がある。売り物だったら、折箱やケース。作るんだったら、鍋や鍋状のもの。容れ物に合わせて決めた黄金比は、当たり前だけど容れ物が変わると崩れて、見た目も味も決まらなくなる。

 

容れ物の大きさには左右されず、大きくなっても小さくなってもいつでもきっちり黄金比を保てるのなら、理論化して数値化できている。お醤油とお酒は1:1で、各大さじ1。という風に理論化して数値化できていると、コピーもアレンジも自在になる。

 

コピーとアレンジを何通りも繰り返す場では、理論化して数値化する過程が必須。理論化も数値化もできないものは、アレンジどころかそもそもコピーできない。

 

コピーされない、改変されないものをめざした時。そもそも理論化も数値化もできない状態をめざすしかなくなって、単品では完璧にバランスが取れていても、全体では調和に欠けて著しくアンバランス。という有り様になるのかも。かもかも。

 

成熟期に入った各種サービスが、時に“終わコン”、終わったコンテンツ呼ばわりされるのは、主に加速装置という側面からみたものだと勝手に思ってる。

 

一が万や千になるまで待ってられない時に、一が万や千になるのを可能にして時間が節約できるから加速装置で、加速装置が加速装置として機能するために必要なのは、万や千の余剰。

 

余剰がないと、加速は続かずに失速する。

 

理論化して数値化できていると、コピーもアレンジも自由自在。計算済みだから、加速するはずだった。なのに失速したのなら、わざと。余剰を増やすのも減らすのも自由自在だから、できること。

 

余剰を余剰と感じさせることもなく次へと向かうなら、余剰が出るのは織り込み済み。あるはずの余剰がなくて立ち止まるのなら計算外で、どちらが計画的なのかがよくわかる。