クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

神殺し

いたね、そんな人といえばロス・ペローサイババ。どちらもお騒がせキャラとして世間を騒がし、消えていった。消えていったというよりも、騒ぎに飽きた人たちが、彼らから興味を失ったから見なくなったという方がより正しい。

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お騒がせキャラは、いずれ飽きられる。

 

飽きられることがわかっているから、世間を騒がせる奴を目立つ場所に置き続ければ、それだけ早く賞味期限も切れて世間は静かになる。

 

極端から極端に移動する人は要するに偏っていて、ほどほどでは居場所が見つからない人。思想的に極左だった人が極右に移動するのも、リベラルに転向することを思えば想像よりはきっと簡単。極端な思想はどっちもどっち。ただ大きく違うのは、神殺しを許容するかどうか。神様を殺せない人は、きっと極左として認めてもらえず、神様を愛せない人は、きっと極右としては認めてもらえない。

 

クリスマスにジングルベルと浮かれて除夜の鐘を聞いて、年が明けたら初詣に行くような人はほどほど。

 

やらぬ善よりやる偽善とはいえ、善行の数値化や見える化は、要するに偽善者がより報われるシステムだから気に食わない。

 

偽善者は善人のふりをする人で、何か不純な目的あるいは腹に一物あることを隠しながらも純粋さを装って、無邪気、邪気のない人に近付いて目的を果たす人のことだから、彼ら偽善者がより報われるシステムだと、善人が救われなくなる。

 

善人を救わず偽善者を救うシステムの先にあるのは、善行を施す人がいなくなった世界。善行がなくなれば、善行によって生かされてきたような人たちの居場所がなくなり、善行に頼らない世界をめざすしかなくなる。

 

行き場を失くした人たちの先に待つのが、偽善者が用意した善行に頼らない劣悪な職場しかなかったら、偽善者丸儲け。

 

善行に頼らない世界とは資本主義の最末端なのか、あるいは資本主義とはまた別種のギグエコノミーなのかは知らんけどさ。文化や宗教の延長線上に善行があり、その善行を否定するってことは、その人たちの居る場所は神殺しにより近いかもね。かもかも。

 

自身のコピーを必要とする人は、コピーの多寡でヒエラルキーが決まる世界の住人だと勝手に思ってる。偽善者がより報われるシステムの推進者は、偽善者に決まっていて、偽善者が増えて嬉しいのも偽善者に決まってる。

 

お休みなさーい。