クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

これは古典作品のお話です

先に見初めたのは女の子の方だった。見初められた男の子は、ただ絵を描くのが好きだった。

 

きれいな女の子に会えて絵が描ける。その辺りでは、一番のお金持ちとは信じられないような廃墟同然のお屋敷に、それから男の子は通い出す。

 

女の子でも男の子でもなくなった時、彼らは別々の道を歩き、再会するのは故郷フロリダを遠く離れたニューヨーク。ニューヨークでアーティストとして認められるために、再び絵を描き出したフィンの前に現れたエステラは、フィンをエステラの生きる世界に呼びに来る。

 

エステラやエステラの仲間たちと一緒でも、引け目を感じることはないほどの成功をおさめた時、エステラは再び手の届かない人となる。そしてずっーと昔、まだ男の子だった時に強烈な印象を残した男性と再会したフィンは、思いがけないことを告げられる。

 

それから何年も経ち、パリを経て再び故郷に戻ったフィンは育ての親であるジョーに温かく迎えられる。

 

少年時代に通った、取り壊される予定の屋敷を訪ねてみると、少女だった頃のエステラそっくりな娘を連れたエステラと笑顔で再会し、フィンの旅は一旦終わる。

 

親代わりとなってフィンを育てたのは、姉。彼女は子どもの養育に適切とは言えず、姉の恋人だったジョーと、好きな絵に没頭できる時間がなければ、きっとフィンはもっと違う人間に育っていた。

 

廃墟同然の屋敷も子どもの養育に適切とはいえず(何しろ古くてでかくて手入れが行き届かない)、その屋敷の女主人であるエステラのおば(伯母?叔母?)も、一見すると子どもの養育に適切とは言えない。

 

だけどフィンもエステラも、世間一般とは切り離された場所で過ごすことで、正規の美術教育を受けずにアートに親しんだ。

 

フィンの後見とも言えるエステラのおばにフィンを引き渡したあと、姉はフィンの前から姿を消す。親代わりだった姉は、恋人だった男の元に自分を残して消えた。

 

そういう環境で育ったフィンが、素直に好意と憧れを感じたエステラとともに、本来なら足を踏み入れることのないニューヨークのアートシーンで成功し、仕事をするようになり、生きる糧を生活の糧に変え、屈託などない状態で故郷に戻り、エステラと再会する。

 

という筋書きから、文豪ディケンズの『大いなる遺産』が即座に連想されるのか。AIにでも聞いてみたいところ。

 

ディケンズと言えば、『クリスマス・キャロル』しか知らない。『オリバー・ツィスト』も『二都物語』も、ヴィクトリア朝時代の持たざる者から持てる者へのものの見方に辟易して、あんまり読む気にならなかった。

 

持たざる者の気持ちも持てる者の気持ちも、時代とともに変化するはずだけど、古典作品は描かれた当時のものの見方を固定化して補強しがち。だから古臭いものを古臭いまま再現すると、復古調になって説教臭くなる。

 

舞台を過去に設定することで、現代では素直に言いにくくなったことも言いやすくなる。時代ものにはそういう利点と側面も確かにあるけれど、1998年のグウィネス・パルトローイーサン・ホーク。動画配信が始まる前のハリウッドスターに、言えないことなんてあったの?というのが、1998年版の『大いなる遺産』。

 

文豪の作品をハリウッドが映画にすると、こうなるよという時代の空気が詰まってる。

 

スターを起用して舞台を現代に設定し、持たざる者だった少年が、好意を寄せた女性に導かれて階級移動を果たし、なりたかった者になるという自己実現も果たして故郷に戻ってくる。という(恐らく)原作の骨子そのまんまな構成は、文豪作品へのオマージュというよりは、むしろ『ウエスト・サイド物語』へのオマージュだと思った。

 

クリスマス・キャロル』しか知らないけれど、現実と現実には起こりそうもないこと。虚実の組合せの妙を最大限に利用して、時機にかなった作品(この場合はクリスマス)が作れるような、持たざる多数の大衆というマーケットを見ていたからヴィクトリア朝時代を代表する文豪となったディケンズ

 

彼が1998年に生きてたら、きっとこういう風に作ったんじゃないだろうか。

 

現在を描きながらも過去を描き、同時にその時旬のアクターを起用することで、未来への種も蒔いている。

 

グウィネス・パルトローは、1998年版の『大いなる遺産』のなかで、ナイスバディを披露している。ナイスバディといった性的コンテンツは、往々にしてデジタルとは相性よし。コントロールできない状態では不適切に扱われがちな性的コンテンツを適切に扱おうと思った時、技術は進歩する。だから、未来。

 

今ではユニコーンとなったスマートニュースの最初期には、性的コンテンツを多分に含んだ媒体が、ランキングの上位にいた。あれはサービスが軌道に乗るまでの一時的な現象で、加速装置のなせる業。

 

アクセルを踏み過ぎると乗せた荷物は振り落とされ、ブレーキを踏み過ぎると目的地までたどり着けない。

 

現時点での評価や注目を気にし過ぎると、過去の遺物は残らない。過去の遺物や遺産に重きを置き過ぎると、現時点での評価や注目に届かず未来にたどり着けなくなる。

 

ひとつの作品のなかに、現在・過去・未来を盛り込んで“時間“を閉じ込めると尻尾が長くなってロングテールとなり、時空を超える。

 

早期に何らかの才能を認められて囲い込まれ、ナビゲーターによる試練を経て才能を開花させる囲い地の中だと、時間を閉じ込めやすい。囲い地は才能を囲い込む場所だから、よそ見できないように、二人が出会う場所は廃墟同然の屋敷だった。

 

という解釈にしておくと、お金かけたくないところにはかけない節約志向と合理的精神も薄くなる。真面目にヴィクトリア朝を再現しようと思ったら、先人の遺産を大事に取っておかないと、ムリ。

 

内輪やファミリーの声を聞き過ぎると外まで届かなくなり、素晴らしいオリジナルに触発されて、僕・私の考えるホニャララが量産されて読者や視聴者のような受け手へのサービス精神込みで、オリジナルが侵食されていく。

 

そういう欠陥が露わなのに古典作品のオリジナルにこだわるのは、オリジナルを踏襲したどのバージョンを選ぶのかにも似て、ナンセンス。

 

現代に生きる人に現代に通じる表現で古典が発信できると、時間も才能も囲い地に留めることができて、現在の先へと繋がっていく。