クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

冷や水ぶっかけ装置

茅葺屋根の伝統的木造日本家屋が建ち並ぶ、一見鄙びた地方の小集落は、そのいかにも日本的な景観が集落の自慢でもあるせいか、消火設備だけは近代的で万全だった。

 

伝統的日本家屋はつまり紙と木でできているから、何しろ燃えやすい。燃えやすいから、火が出たら即座に冷や水ぶっかけられるようになっていた。火が付きやすくて燃えやすいところは、即座に冷や水ぶっかけられるようにしておかないと、頑張って人を増やして街を大きくしたところで、火が出たらことごとく燃え尽きる。

 

目を凝らして見れば、冷や水ぶっかけ装置がここにもあそこにも。

 

という街はだから逆説的に燃えやすくて、火が出て何かを燃やし尽くした後に、こりゃいかんと冷や水ぶっかけ装置がそのたびに増えて、いつの間にか冷や水ぶっかけ装置だらけの街になったんだと思えば納得する。

 

景気に敏感で、よくも悪くも真っ先に影響を受ける。景気という熱や欲望に浮かれやすくて過熱しやすい場所は、経済が過熱した時には公然とひどいことが行われがち。バブルという単語さえまだ生まれてなかった昔っから、投機そのものはあったはずで、歴史的に投機に巻き込まれやすいのは、やっぱりすぐに火が付きやすくて燃えやすい場所。

 

すぐに火が付いて、火が出た時にどういう反応を示すか高みの見物ができる場所はだからマーケットで、参加者が増えないとマーケットも大きくならない。

 

値付けにも納得感があり、商品が豊富でだれもが気軽に手に取って現物を確認することができる。支払い方法も透明で、わけのわからないコストがいつの間にか上乗せされることもなく、特別なことがない限り営業時間も規則的なのが一般的なスーパーマーケットのイメージ。

 

開催時期も不定期で、いつ開くかも不透明。欲しいものが欲しいだけ揃うとは限らず、時には禁制品が並ぶのがイメージとしての闇市で、不透明な部分が多いと、物資不足でそもそもそこにしか物がないという特殊な事情でもない限り、透明性が確保された場所より繁盛するとは考えにくい。

 

参加者が増えないとそもそもマーケットが大きくなれないからと、マーケットが過熱するよう小細工が過ぎて予想を超えて欲望に火が付き過ぎた時、サーキットブレーカーとなるのもやっぱり冷や水ぶっかけ装置だから、水が出て来ないのなら論外。

 

冷や水ぶっかけ装置から水が出てこないのなら、欲望を燃やしてマーケットを過熱させるわけにはいかない。そもそも、燃え尽くしたいという動機でもない限り。

 

火に油を注いでた。そういうレッテルがべったりと張りついた側が、今は冷や水ぶっかけ装置になったとしても、火に油を注いでいたイメージしかなかったら、当事者にとっては消火でも傍目からは火に油を注いでるようにしか見えない。

 

逆に冷や水ぶっかけ装置だった側が、一生懸命経済を活性化させようと火に油を注いで回っても、冷や水ぶっかけてるようにしか見えないから、やっぱり欲望にはなかなか火がつかない。

 

火に油を注いでた側が、冷や水ぶっかける側に回るあるいはその逆をやるなら、場所を移すか別のものに化けるか。

 

火が付きやすくて燃えやすい。そういう場所で、見るからに立派な冷や水ぶっかけ装置として鎮座してるものは、だから火に油側と冷や水ぶっかけ側が出逢う場所でマーケット。

 

水が出てこない。あるいは火が出てこないとマーケットとして大きくなれないから、そもそもは水も火も商ってた場所がどちらかに傾くと、別のより大きな火も水も商ってるマーケットに、今度は参加者としてやってくる。

 

そういうサイクルが何クールかすると、誰もが安心して参加できる透明性が確保された、より大きなマーケットが出来上がり、高みの見物を決め込めるポジションなんて極小。という状態が生まれるのかも。