クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

道具が登場すると、近代

剣に馬に銃。走る泳ぐといった、個人の身体能力の高さの証明プラス、道具を与えられた時の道具の扱いに、習熟してるかどうかが問われるのが近代。

 

と、考えると、なぜ“近代”五種なのかもすんなり納得する。

 

素手で殴り合ったり取っ組み合ったりは、士官(あるいは士官でイメージされる、選抜を経た者)のすることじゃない。だから道具が必要で、よい道具とよき道具の使い手が勝利するのが近代戦。というマインドがあると、道具の習熟にも前のめり。

 

ついでに、よい道具が用意できない時は、素手での殴り合いや取っ組み合いを奨励するのは頭脳戦の一種かな。

 

より早く移動するためのツールである馬と息ピッタリで、誰よりも早く駆け抜けていくと“人馬一体”という言葉もしっくりくる。道具の習熟度が、勝利を左右する重要なファクターだったら、早くから道具の扱いに慣れている方がより有利。

 

だけど道具は消耗するもので、新しい道具を次々と試していくと、道具の癖や習性にもより詳しくなって道具の取り扱いにもより習熟する。すると、道具との相性という運的な要素も乗り越えて、絶対王者により近付いていくのかも。かもかも。

 

個人の身体能力の高さを示すような、素晴らしい大技をここんとこ幾つも目にしたけれど。大技はすべからく凄く見える門外漢には、技の真の優劣は見分けがつかない。

 

技の真の優劣は分からないなりに分かるのは、着地や着水がキレイに決まったかどうか。

 

ひねって回転して。大きな技を繰り出した後の着地や着水に乱れがないのは、到達地点にズレがない、何よりの証。

 

ズレるのは、力み過ぎたかそれともひねりや回転が足りなかったからか。そう思うと着地や着水、つまり演技終了時の体勢や姿勢が採点を大きく左右するのもよくわかる。

 

ひねって回転して。大技を繰り出したあとに音も立てず、吸い込まれるように着水(あるいは着地)できたのなら、姿勢や体勢のコントロールが行き届いてる。

 

本来コントロールしづらいものを、道具も使わず身ひとつでコントロールしているから、高く評価される。という理屈には、納得しかない。

 

ランニングにスイミングにサイクリング。トライアスロンは、自転車という道具を取り入れても速さに焦点を置いていて、速さだけを競うと道具に習熟してるかどうかは後回し。だから道具に左右される要素が少なくて、それだけ参入や参加のハードルも低いのかも。

 

参入のハードルが低いから趣味としての裾野が広く、趣味として裾野が広いところから栄冠に輝くから鉄人なんだと思うと、これも納得しかない。