通りすがりに見るだけだといつもと変わりない赤レンガ庁舎、よく見ると工事中。
降りしきる雪のなかで見ると本物と見間違いそうで、工事完成後には取り壊されるとは思えないほどよくできている。
工事中なんだから、単なる真っ白な壁でもいい。だけど観光客なら誰もが一度は見に来るような場所に、本物と見間違うばかりの立派なフェイク画を置いているのなら観光客フレンドリーでおもてなしの一環。
(“神は細部に宿る”で、この種のちょっとした遊びを見つけると嬉しくなる。)
本当はもっと簡素に済ませられる、質素にすればいいところに余裕の産物が生まれてくるのが時代の空気で雰囲気。
例えばバブル。バブルを象徴する建物は大抵装飾過剰で無駄にゴージャスで豪華絢爛で、バブルにいい思い出がある人にとっては好意的に受け入れられる反面、悪い思い出が甦る人にとってはけちょんけちょんにけなされがちで非難されがち。
けちょんけちょんとクソミソ。どちらの方がより方言っぽくてより標準語っぽいのか。一瞬考え込んだけれど、どちらも外国語に翻訳しにくいという点では一緒でどちらもローカライズ。
工事が長期かつ大規模で、工事区画には観光名所も含まれるような場合。本来は殺風景でいいはず、殺風景だった工事中の覆いをキャンバスあるいはお手紙に見立て、通行人の目から見て楽しい何かが描かれるようになったのはいつ頃からで、どこの国でも見られるものなのかは知らないけれど。おもてなしの一環であることは間違いない。
才能の無駄遣いは、物心両面でのフトコロの深さをアピールできる。
こんなところでさえこんな立派なもの描いちゃうの?あるいは描いちゃうんだという発見からは、お絵描きクリエイティブ産業の裾野の広さしか感じない。
産業の裾野が広くなるほどに層が厚くなってキラ星がひしめいて、名声アピールポイントの奪い合いが激しくなるばかりのなかで、新しい名声アピールポイント・名声を見せつけやすい場所を開拓しやすいのはきっと新しいという自覚がある方。
新星やフレッシュマンでは越えられない壁の代わりに、新しい活躍の場を常に用意していくようにすると、きっといつまでも左団扇で暑さ寒さ知らずでいつもぬくぬくできそう。
北大南門から赤レンガ庁舎までの道は、オリンピックでもアスリートたちが駆け抜けた道で、フェイク画像の完成もいっちゃん早かった。
(よーく見ると雪だるまつき)