クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

わかりやすさなんて、必要なし

ひと塊の文章を、単語や品詞にひとつひとつ分解していった時に、わからないことばなど何ひとつない。

 

なのに、まとまった文章になるとサッパリ意味がわからない。あるいは何が言いたいのか焦点がぼやけるばかりで、やっぱり文意がわかりにくい。

 

という経験は、専門性の高い内容について述べた文章になるほど増える。

 

専門的かつ難解な内容は、専門的かつ難解なまま読み下せる人向けで、万人向けに分かりやすく読みやすくするほどに誤読が増えて、弊害が大きくなるからそうなってるんだと思ってる。

 

この場合“万人向けに読みやすく”は、読んだことないけどゲームの攻略本のようなもの。ゲームの攻略本を読み込んだ数が、ゲームそのものの上達には必ずしもつながらないのと一緒だと思えばわかりやすい。

 

ゲームの攻略本に通じることで、ゲームの攻略にかかる時間は短縮できても、何冊もの攻略本を新たに生み出すような、難解かつ専門的な何ものかは生み出せない。

 

だから新たに難解かつ専門的な何かを生み出す必要のある人は、攻略本に通じるよりも、難解かつ専門的な内容をそのまま理解できるようになりなさい。ということになるんだろう。

 

わからないことばなど、何ひとつない。にもかかわらず、塊になるとサッパリわからず意味がつかめない。なのにキャッチ―なフレーズだけがひとり歩きして、誤読が増えて弊害が大きくなってそうだと勝手に思っているフレーズの筆頭が、悪人正機

 

なぜ、悪人が救われなければならないのだろう?という疑問が大き過ぎて、その先に進めない。

 

進めないので、ちょっと想像をたくましくして、シチュエーションを勝手に設定してみる。

 

生き延びる術を知らず、生き延びるためには善人ではいられず悪を為すのなら単なる凡人。単なる凡人なのに、凡人としての生き方や生きる術を知らないのなら、凡人としての生き方を教えればいいだけになる。

 

凡人として生きる時に必要なのは、まずは規律正しく生きることで、食べて寝て運動していれば勝手に体内時計は整って、規律正しく生きられる。規律正しく生きる器だから、例えば勉学に励むや勤労に励むのようなオーダーに対しても、規律正しい反応が返ってくるようになる。

 

規律正しい反応が返ってくるようになったらオーダーの難易度を上げて、より高度なオーダーに取り組んでもらう。という段階を経ることで、悪を為してでも生き延びたかった凡人が、悪を為さずとも生きられるようなるものなんだ。とまで考えを進めて初めて、悪人正機というフレーズに感情面でも納得できた。

 

非凡な人は、どうやったって生きていける。

 

だけど、凡人は凡人として生きやすいルートに乗らない限り、生き辛いまま。だから、辛い状態から引き上げてくれる人がひとり見つかれば、だーいぶ生きやすくなる。

 

こういう(哀れで惨めでひどい)人、こういう(哀れで惨めでひどい)状態にある人なら、きっと生き辛いでしょ?手助けしなきゃ!!!

 

というモチベーションに突き動かされて、一般的には生き辛い状態にあるだろうと思われる人達に総アタックかましている人は、その人によって救われるか導かれる人が現れるまで、満たされない。

 

誰かや何かを救いたくてたまらない。役に立っているという実感を持てない限り生きられないほどなら、その人は生き辛くてしょうがない。

 

だからそういう人のために、救いも導きも必要としていない誰かがおとなしーく導かれているだけで、世の中はものすごーくものすごーくものすごーく平和で穏やかになる。

 

というのが、歎異抄の書かれた昔から進化した世界なんだと思う。

 

とある職に就くために、一見不要あるいは不必要と思われる資格やあるいは学習期間が必要になる状態は、そういうことなんだと勝手に思ってる。