クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ひらがなの歌

誰にでも理解できる、平易なことばしか使ってない。平易なことばしか使ってないのに、耳に残って印象に残るのなら、メロディーがいい。

 

豆腐の角に頭をぶつけても、死なないし死ねない。つまり、それくらい柔らかい。

 

柔らかいから噛みやすくて、歯が悪い人でも食べやすい。大勢の人に食べてもらいたい時、食べやすいのは柔らかいもの。柔らかいものを選ぶのは、大勢の人に届けたいからだと考えた時、平易なことばはお豆腐のようなもの。

 

平易なことばでのびやかに素直に感情を歌い上げ、それでいてジメジメとした湿っぽさがないと、いかにも今どきの日本っぽくて、“ひらがなの歌”だと思う。

 

孟母三遷や塞翁ヶ馬のように、漢字数文字に教訓めいた昔話が凝縮されていることばは便利な反面、余計なバックグラウンドを背負ってしまう。

 

平易なことばには背景がなく、背景がないからストレートに届く。

 

そしてストレート過ぎる平易なことばは、時には凶器となって受け手の心をえぐることもある。だから、凶器ともなりうる平易なことばから、とげとげしさや禍々しさを細心の注意で取り除き、どこまでも明るく朗らかな調子で貫かれていると、礼儀正しいけれど真意は掴めない、今どきの日本人っぽさも一緒に浮かび上がるよう。

 

全方位チェックが入ることを計算に入れてないと、そんな風にはならない。

 

全方位チェックに備えるなんて、面倒くさくてしょうがない。面倒くさくてしょうがないといいつつも、結局はそつなくこなしてしまう辺りが、やっぱりいかにも今どきの日本っぽい。

 

周到な計算に貫かれているけれど、一見あるいは一読するとナチュラルで自然体。

 

周到な計算に貫かれた自然体、それも相当な手練れに対抗しようとすると、自然体では勝ち目が薄いから不自然を選ぶと、まずは同じ土俵で勝負しなくてもよくなる。

 

負けない。あるいは何があっても負けられない人は、無理ゲーからはサクッと降りられるから負けないんだなと、なんだか勝手に思った。

 

全方位チェックが入ることはあらかじめ計算済みで、どこまでも作為を感じさせない強固な不作為が際立つのは、作為と組み合わせた時。

 

どこまでものびやかで素直に感情を歌い上げた歌詞よりも、実は旋律の方がもっと自然に生まれてきたのかも。“ひらがなの歌”をのせてひらがなの国で披露すると、もとはどこからやってきたのかわかりにくくなる。

 

作為に作為を組み合わせると、くどくなる。作為と不作為を組み合わせ、相乗効果で多くの人に届けたとき、より多くの人のもとに届くのはまずは不作為に相乗りした作為。

 

全方位チェックという監視の目をくぐり抜けやすいのはいつだって作為の側で、だから作為はいつだって不作為を探してるんだと、これも勝手に思ってる。