捨てる神あれば拾う神ありは、端的に多神教の特徴を表している。
ついでに、捨てたものをまた使うの?という感情の壁もらくらく乗り越えて、サステナブルと言い張れば、諸事情や大人の事情も呑み込んで、角も立ちにくくなる。
方言が内と外を分けるように、ローカライズな食は兵糧攻めの亜種で、よそ者が見つけやすくなる。
米味噌醤油に保存性の高い魚の干物や煮物が主菜で、副菜には海藻どっさり根菜豊富で、横文字の野菜や横文字に翻訳しようのない食品豊富な食事が続いても平気かどうかには、その人の歩んできた食生活が顔を出す。
体重や体調あるいは食費を意識した時に、食べられないことはないけど、続くと飽きる。くらいがよくある態度で365日続いても平気なら、現代日本人の感覚に照らすとちょっと特殊な食生活だとすぐわかる。
見た目の同化は一番簡単で、内側の同化は見た目の同化ほど簡単じゃない。
方法や手法は問わず、短期間で強制的にダイエットする必要に駆られた時。もっとも簡単なのは、食生活がまったく異なる異国で過ごすこと。だと勝手に思ってる。
食べる物すべてが口に合わない。そういう環境に身を置くと、洋服のサイズもたちまち変わって、サイズが合わずに着られなかった服だって着られるようになる。
逆に、食べる物すべてが初めて口にするようなものばかり。それまでの成育環境とはまったく異なる環境にあっても食欲は減らず、何でも食べられるようなら順応性が高いということになり、異郷であってもサヴァイバルする可能性がより高くなる。
ハンバーガーにコーラ、あるいはピザはすでにグローバルフードで、ハンバーガーもコーラもピザもまったく手に入らない場所を探す方が難しい。何しろ、外食するお店はなくても、スーパーやコンビニに行けば手に入る。
手には入るけど、コーラはともかく焼き立てのピザやハンバーガーになると、外食ほど選びようがないと、やっぱりすぐ飽きる。
小売りの現場、スーパーやコンビニには次々に新商品が投入されていき、新商品はローカル色豊かなご当地メニューだったりあるいはアジアンだったりするけれど、世界のどこでも買えそうな食べ物(スイーツ除く)になると、新商品の登場頻度はぐっと落ちる。
ハンバーガーならパテにチーズ、ピザならやっぱりチーズやトマトソースが欠かせなくて、オーソドックスなほどグローバルフードに近くなってどこでも食べられる。トッピングやソースに世界のどこでも食べられない、作れないものが加わるほどに、ローカルフードに寄っていく。
子供の頃からグローバルフードを食べ続けていると、いくら何でも飽きる。
飽きるから、オーソドックスなものならより高級なものを食べてみたいと思うようになり、ソースやトッピングにもバラエティを求めるようになる。そうして世界のどこに行っても同じものが食べられたからの単一メニューに多様性が加わると、仕入れコストが上がる。
そのしわ寄せがどこにいくかというと、きっとオーソドックスなもの。
最もオーソドックスなはずのものの味や素材のレベルが下がったり、欠品が続くようになると赤信号で、オーソドックスなものが欠品しなくなって味や素材のレベルも元に戻るかより向上すると、供給体制が元に戻ったんだと思う。
捨てる神ばかりになった時、真っ先に拾う神に変身すると、どこよりも早く供給体制の立て直しが出来て、仕入れコストも安定するようになってステークホルダー各位も安定するようになるのかも。
配分や再配分への不満が少なくなって安定に向かう一方で、独占を望む方との亀裂やあるいは分断は大きくなるというのは、ありそうな気がしてる。