クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

奇書が生まれてくる背景

世の中には、奇書としか表現しようのないものがある。

 

文字から映像。長いものからより短いものへと、好まれる表現の形がすっかり様変わりした現在から考えると、とんでもなく長尺で難解で、わかりやすさとは距離がある。例えば『大菩薩峠』や、『南総里見八犬伝』。そこまで長くはないけど、『虚無への供物』や『ドグラ・マグラ』などなど。あるいは『薔薇の名前』なんかも、そこに含めてもいいのかも。

 

とんでもなく長くて、しかも内容が内容だから爽快感とは真逆にありそうなものだから、読み通したことがあるのは『虚無への供物』だけ。読んだ当時の感想としては、なんだかよくわからないでしかなかった。

 

今でもやっぱり奇書には興味関心が薄いけれど、奇書が生まれてくる背景にはそれなりに関心がある。

 

例えば『虚無への供物』は、日本史上における最悪の海難事故から生まれたと聞いたことがある。あんな事故がなければ生まれてこなかった。作中での事故の扱い方はどうであれ、そういう意味だと理解している。

 

そう捉えると悪趣味と紙一重。ではあるけれど、実際に読んだときは、悪趣味よりもただひたすら訳が分からなかった。悪趣味を覆い隠すためにわざと衒学的、わざとらしく大袈裟な表現に走ってるのかもしれないけれど、作為なのか無作為なのかもわかりにくかった。

 

大菩薩峠』も相当意味がわからない読み物っぽいので、畏れ多くて手が出せない。

 

だから、一見すると奇書としか表現しようのない、意味が分からないのに読み物としてそれなりに成立しているものは、意味の分からないことに意味がわからないまま巻き込まれた、カオスの渦中にある人がカオスそのものを見つめたもの。だと思うようになった。

 

後世まで残るような、それも史上最悪と枕詞につくような出来事の矢面に立たされる。どう考えても75日では記憶から消えないような事件や事故の渦中、それも矢面に立たされた人の心中はどうかと考えると、きっとカオス。

 

どこかの誰かが、意味の分からないことに意味がわからないまま巻き込まれ、鎮まることのないカオスを抱えたままの人に、また別のどこかの誰かが聞き書きする。あるいは側聞したり勝手にヒントにすると、奇書が生まれてくるのかも。

 

大菩薩峠』は、何十年も連載が続いたものだったとか。

 

例えばそれを、意味のわからないことに意味がわからないまま巻き込まれ、カオスを抱えたまま生きることになった人を見続けていたら、数十年なんてあっという間だったと読み替えた時。カオスを抱えたまま生きることになる人が、一人ではなくもっともっと多数だったら、見つめ続ける方に余裕と体力がないと、続けられない。

 

何かの変わり目には、意味のわからないことに意味がわからないまま巻き込まれる多数の人が生まれがち。

 

意味のわからないことに意味がわからないまま巻き込まれる。多数の人をあらかじめ想定済みで、あらかじめ対処法もわかったうえじゃないと、変わり目だからといって、意味のわからないことに意味がわからないまま大勢を巻き込むようなことは、してもしょうがない。だって対処しようがないんだから、余裕と体力が削られるだけ。

 

あんなことがなければ、生まれてこなかった。

 

でもすでに生まれて、知る人は知っている奇書、カタチになってしまったものを、後世はどう処遇するのかと考えた時、餅は餅屋でその種の歴史を乗り越えてきた側が呼ばれるんだろうと、勝手に思ってる。

 

5GもWi-Fiも、スマホもケータイもなかった昔。

 

無人島に持っていくならどんなよみものにしよう?とよく考えた。英雄列伝的な、途方もなく長い歴史書ならきっといい暇つぶしになると考えた。奇書の類は、無人島に持っていくものではなく、すでに無人島に放置された人が書くのに相応しいもの。

 

傍らに人はいるけど、精神的には孤独。分かち合えないものを抱えている人が書くのにちょうどいい。