クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ホリデーシーズン

ターゲットをしぼってパーソナライズされた、個人の好み(あるいは好悪)に合わせた広告や宣伝は、ひと昔前に比べたらきっとやりやすくなっている。

 

その反面、個ではないけれど個々人には明確に好みが存在する集団に合わせた広告や宣伝は、ひと昔前よりもずっと難易度が上がっているはず。

 

例えばクリスマスにお正月。ホリデーシーズンだからクリスマスらしい、あるいはお正月らしい休日を過ごしたいと思ったとしても、クリスマスらしさもお正月らしさもすでに多様化しているから、正解はひとつじゃない。

 

クリスマスにはクリスマスらしい動画を見たいと映画を物色していたけれど、人によってはクリスマスらしい動画は映画ではなく何かのスポーツイベントかもしれず、やっぱり正解はひとつじゃない。

 

クリスマスらしい映画、あるいはストーリーってなにさ?と自問したとき思いついたのは、“人類愛”。

 

友人や家族ではない人に向けて好意を示す。そういう描かれ方をしていると、クリスマスという季節にふさわしいと思いやすい。

 

それは一度きりだったのか複数回だったのか。今では覚えていないけれど、『森は生きている』という子供向けアニメは、クリスマスに見るものだった。

 

家族がいても、家族からたっぷり愛情を注がれているとはとても言えない状態にある主人公、どっちかっていうと辛い目に遭っている主人公が、家族ではない“外”の人から親切にされてたっぷり愛情を注がれる。確かそんなお話で、友人でも家族でもない人から示される好意や親切、あるいは愛情が描かれていたから、クリスマスに見るべきものとしてテレビでも放送されていたのかも。かもかも。

 

辛い目に遭っている子供が主人公というのは極端すぎる例だから子供向けで、子供向けではなく万人向けにしようとすると登場人物もより親近感を得やすいものになるんだろう。

 

ホリデーシーズンにも働く大人が大勢いて、誰にでも開かれた健全なイベントが開催されるのが都市で、イベントが往々にしてフリーで無料なのは、その一方にはお金のかかる、誰でも参加できるわけではないイベントが行われる街だから。

 

そういう街の在り方に自覚的、かつ数の多い方を向いて作ると群像劇になって、群像のなかに意外な有名人を登場させることで、現実的な街で現実を向いて生きる人達と非現実とを共存させるひとつの在り方を見せていたのかも。

 

数が増えると序列がわからなくなる。あるいは役に立たなくなる中で、クリスマスだからあるいは新年だからという理由で思い出してもらえる。そういう作品は、数打ちゃ当たるを信じず必ず当たるを狙った効率から生まれた結果で、ストーリーは古びてもストーリーに乗せて届けた先見性みたいなものは、ストーリーよりも長持ちするものなんだと思った。